すべての「いのち」のために

日本SRGM連盟代表・日本アニマルライツ連盟理事・日本優生思想研究所研究員の日野智貴のブログです。いのちに線引きする「優生思想」に断固反対!(記事内容は所属団体の公式見解とは無関係の個人的見解です)

三島由紀夫と「役に立たない私の絵」

 一年以上、このブログを更新していない。

 私の近況は人事を尽くして天命に遊ぶブログを読んでいただければ、と思う。

 こちらのブログでは、もう少し、私の個人的な趣味(?)というか、感覚を反映したブログを書いていきたい。

 場合によっては、スピリチュアル系の話も書こうと思う。

 久しぶりに投稿する今回は、一年近く前にFBの秘密グループに投稿した記事を掲載したい。

 

 盟友の黛カンナさんが書いた小説に『役に立たない私の絵』という作品があった。
 先日、谷口雅春先生の『愛国は生と死を超えて――三島由紀夫の行動の哲学』を入手したのであるが、これを読んで、ふと、この黛さんの小説を思い出した。

『役に立たない私の絵』という作品は、あらすじをいうと、主人公が自殺願望を持つ姉を止めるために、人間の「死」を題材にした気持ち悪い絵を描く。しかし、その姉は、その絵を見て、逆に美しさを感じ、主人公の絵を模倣するかのように「美しく」自殺することを選ぶ――という、もの。

 但し、これだけ言うとこの話は暗い作品になるが、黛さんの作品は基本的にハッピーエンドである。どういう意味かを言うとネタバレになるので、そちらを読んでほしい。
黛さんが取り上げたのは、本気で死のうとする人ではなく、死の美しさに魅了されて自殺を選んだ人間へのアイロニーの面もあると思う。だから、三島義挙とは、直接の関係は、ない。
 ただ、ここでの主人公は「テーマを否定する作品」を描いたのに、受けてはそれを「テーマを肯定する作品」であると、誤解する。これは、黛さんの作家としての経験が反映されているものだと思う。
 そして、三島由紀夫も同じ問題に直面しているのは、知る人ぞ知る話ではないだろうか?
 三島由紀夫の作品に『我が友ヒトラー』というのがあるが、これは、ヒトラーを友と信じ、そして、粛清された「右翼」を主人公としたものであり、その主人公を、例えば今話題の生長の家原理主義者に置き換えれば『我が友安倍晋三』となるのではないだろうか?

 さて、三島由紀夫自身の「感覚」が「保守」と言えるものか、どうか、というと、やはり、「保守」か「革新」か、といえば、「保守」の範疇に含まれるものであると思うが、江藤淳先生がどうして三島義挙を批判されたかのか、ということも考えると、三島義挙を無条件に称えることは危険だと思う。
 雅春先生も仰っているように、牛肉を大好物とし、自らの肉体美を愛した耽美主義者としての一面を持つ三島由紀夫は、一方で天皇を神として尊ぶ保守の精神を持った男であり、その矛盾を自覚していたからこそ、自らの肉体への死を国家へ誠をささげる諌死へと、昇華されたのである。

 それを、三島義挙の外面だけをとらえて「美しい」と思うと、『役に立たない私の絵』と同じ結末を迎えるのが、オチであろう。

 三島義挙は、三島由紀夫だからこそ、必要であったのであり、また、意味があったわけであって、憧憬の対象では、ない。三島義挙は素晴らしいとは思うが、その「外面」だけを捉えて美化すると、大きな過ちを犯すと思った。

  あれから一年。

 日本会議の背後に三島義挙があるのではないか、という論評も流れている。

 生学連の元活動家たちによる「日本会議」という「作品」は、彼らにとっての「役に立たない私の絵」なのであろうか?