すべての「いのち」のために

日本SRGM連盟代表・日本アニマルライツ連盟理事・日本優生思想研究所研究員の日野智貴のブログです。いのちに線引きする「優生思想」に断固反対!(記事内容は所属団体の公式見解とは無関係の個人的見解です)

舎利弗でも剥がせなかった天女の花びら


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 私の法名の「龍子」(ナーガプトラ)は、舎利子(舎利弗、シャーリプトラ)から来ているそうです。

 戒師の佐々井秀嶺上人は私が日本に戻る直前、「頑張れ龍子!頑張れ舎利子!舎利子とは舎利弗と言う意味だ!」と言ってくださりました。

 舎利弗と言えば「智慧第一」のお釈迦様の弟子ですから、誠にありがたい言葉を戴いたわけでありますが、それは別に私に智慧があるからではない模様です。

 ある日、佐々井上人は私に他の弟子について「あいつらは智慧はあるけど、理は無いんだ。智慧と理の双方が必要なんだ。もっとも、お前は理だけだからもっとダメだ。」と言われたことがあります。

 これ、どう解釈しても「お前には智慧がない」という意味ですよね。[E:#x1F4A6]

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 一方で佐々井上人は「こいつは各宗派の教学についての知識が深いんだ」とも言ってくださりましたが、知識と智慧は違う、ということを言いたかったのかもしれません。

 智慧第一の舎利弗もお釈迦様に『法華経』の真理を教えてもらおうとした際には三度も拒絶されています。

「下手に『法華経』の真理を教えると増上慢に陥って地獄への大穴に落ちてしまうぞ!」byお釈迦様

 「知識」だけだと悟りを開くどころか、却って地獄に落ちる原因になりかねない訳ですね。

 さて、この舎利弗が登場するのは『法華経』だけではありません。『維摩経』にも登場します。

 私は山王神道天台宗系の神仏習合の聖地で現在も「神仏習合・万教帰一」の立場から阿弥陀如来地蔵菩薩、観世音菩薩を祭神に加えている「宝蔵神社」で修行していたことがあるのですが、そこの長田忍先生は研修生に対して何十年も『維摩経』の講義をされています。

 『維摩経』は出家ではなく、在家の菩薩である維摩詰(ヴィマラキールティ)を主人公とするお経です。

 「○○菩薩」というと、ついつい「菩薩と言われるぐらいならば、エライお坊さんなんだなぁ」と思ってしまいがちですが、大乗仏教では菩薩行に出家・在家の区別はありません。

 インド仏教復興運動の祖であるアンベードカル菩薩も在家の信者(政治家)です。大乗仏教は僧侶だけの宗教ではない訳です。

 佐々井秀嶺上人も信者から「ワンダミ・バンテージ!」(尊敬します、上人様!)と言われると怒ります。「ナモー・ブッダ」(お釈迦様に帰依します)か「ジャイ・ビーム」(アンベードカルに勝利あれ)か、に言い換えさせます。

 バンテー(僧侶)だからエライ、と言うわけではないからです。だからこそ、大乗仏教では神仏習合もできるのです。

 「八幡菩薩」は応神天皇です。天皇陛下も菩薩として崇敬しているからこそ、各地の神社で八幡様が祀られて、今でも八幡宮に集団参拝する僧侶がいるのです。

 宝蔵神社も出家したお坊さんがいるわけでは、ありません。みんな「在家」です。在家のまま菩薩行を実践しよう、と言うのが宝蔵神社での修行でした。

 そんな「在家の菩薩」の元祖とも言うべきが維摩です。


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 維摩詰は優秀な実業家であって、おまけに菩薩行にも邁進している高徳の人物である、その維摩詰が病気にかかったと言うので、文殊止利菩薩以下お釈迦様の弟子たちがお見舞いに行きました。その中に舎利弗もいました。

 文殊菩薩が「どうして偉大な菩薩である維摩詰が病気になるのですか?」と聞いたところから維摩詰の説法が始まります。

 その説法の内容も深いのですが、長くなるので割愛すると、説法を聞いているうちに天女が上の方から花びらを降らせてきたのです。

 それを見た僧侶は驚きます。「具足戒」という戒律により、花びらを身に付けることを僧侶は禁じられています。それで「智慧第一」の舎利弗は一生懸命、花びらを剥がそうとするのですが剥がせません。

爾の時、天、舎利弗に問う、「何の故ぞ華を去る。」答えて曰く、「此の華、不如法なり、是を以て是を去る。」(『維摩経』「観衆生品」より)

 華などに心を奪われるのは「法」つまり「真理」(ダンマ)に反している、だから具足戒でも花で身を飾ることは禁じられている、それなのに天女はあえて誘惑するかのように花びらを降らす、するとそれについて天女は

「出家していても『これは如法だ、これは不如法だ』と言って物事を分別する、それこそが不如法です。」

と言い返します。これについて、宝蔵神社再興の祖でもある光明思想家の谷口雅春先生は次のように述べられています。

 この天女の言葉は、まことに素晴らしい真理を穿っているのであります。天女から雨ふらした花びらは、天女の誘惑の象徴であります。誘惑を誘惑とし、それから逃れようとするとき、却って誘惑は自分の身體について離れないということになるのであります。これは病気の場合でも同じことであります。誘惑も「道徳的病気」と観ることができます。「病気」を悪であると認めて、それから逃げ出そうと思って、「病気、病気、この病気を如何にして自分から引離そうか」とあせりましても、それは舎利弗が自分の身に膠着してはなれない天華を引離そうとして踠いても、いっこう、その天華がはなれなかったと同じように、「病気」は引離れないのであります。それは心に病気を描いているからであります。天華が善でも悪でもなく、人間の分別を超えて、「そのまま」であるように、病気も善でなく、悪でなく、人間の分別を超えた存在であり、病気を思い詰めれば、病気をはなそうと思ってもかえって膠着して離れないのであります。谷口雅春先生『維摩経解釋』318~319頁)

 この後、天女は神通力で舎利弗を女性に変えてしまったり、明らかに舎利弗は天女に遊ばれているのですが、それはともかく「誘惑」にしろ「病気」にしろ、それを放そう、離そうとしている内は離れない、ということです。


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 そう言えば昨日、谷口雅春先生の孫で「国際平和信仰運動」指導者の谷口雅宣先生の講演会を聞きに奈良まで行ってきました。

 そこにはとある宝蔵神社神職の奥さんが参加していて、私はその方とはかつて一緒に修行したこともある仲間ですから、隣に座って一緒に話を聞いていたのです。

 私は事情があり遅れてきたので雅宣先生の話をすべて聞いているわけではないのですが(私は先週も雅宣先生の講演会に参加していましたし)、その奥さんによるとこの日もとても素晴らしい講話だったそうで、遅れてきたことをやや後悔しています。

 もっとも、私が聴いただけでも素晴らしい話で、例えば肉食についてジビエや代替肉について質問が来た時に、雅宣先生は

ジビエは環境問題の観点から、代替肉は命を殺さないという意味では、それぞれセカンドベスト、サードベストかもしれない。しかし、肉を食べるのを我慢するということでは、隠れて肉食をすることになるかもしれない。我慢するのではなく、自然に肉を食べたくないという風になってほしい。」

という旨のことを言われていました。「誘惑」というと女性からの誘惑や美しい華の誘惑もありますが、「肉食の誘惑」についても「我慢」するのではなく、本当に「肉食をしたくない」という心境になるのが肝要であると思います。

 今では菜食主義者の私も「肉を食べたい」と思っている内は、肉食をやめられなかったですから。(笑)

 さて、問題はその後であります。ある方からこんな情報を提供されました。

「日野君が神職の奥さんの○○さんといちゃついていたという噂なんだけど。」

 イチャツイテねぇわ!!ふざけんな![E:#x1F4A2]

 菩薩戒には「決して怒ってはならない。仮に親が殺されても怒ってはならない。」とあるのですが、煩悩深き私は自分の貞操が疑われると激怒します。直ちにこんなLineを送りました。

「取り敢えず、私と○○がいちゃついたとか言った奴、誰か判らないけど教えて!合法的乃至完全犯罪で抹殺してやる。

 得度しても何も変わっていない私に対して、とある女友達がこうアドバイスしました。

「そういう噂を流す人は、好きな女の子をいじめる小学生男子と一緒だから、過剰反応したら却って喜ぶ。笑ってやったらいい。」

「そんな哀れな人に強く当たらずにするのが聖人やね(他人事だから冷静に考えられるけど、自分だったら日野くんと同じように過剰反応すると思う)」

 なるほど、とこれで私も落ち着きました。それで床についても布団の中でも怒りの収まっていなかった愚禿・龍子は、ようやく眠りにつきました。

 「デマを流すな!」というのは「分別の心」「理の心」としては、正当な感情です。しかし、それだけでは却って「不如法」(仏法に反する)結果となってしまうのです。

 「理だけであってはいけない」と佐々井上人が教えてくださった訳ですね。


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