すべての「いのち」のために

日本SRGM連盟代表・日本アニマルライツ連盟理事・日本優生思想研究所研究員の日野智貴のブログです。いのちに線引きする「優生思想」に断固反対!(記事内容は所属団体の公式見解とは無関係の個人的見解です)

泉健太先生の「顔写真を見るだけで吐き気を催す」(古寺多見氏)レベルに達したアンチ立憲(呆)

 泉健太先生について「菅原道真公と同じ意味合いで神」と言うと、なんと普段「野党共闘!」を言っている左側から糾弾される時代になってしまった。

 私のこれらのツイートをどう誤読したのか、「政治家の神格化は良くない」と言ってくる人がいる。

 それどころか、なんと「政治家を先生と呼ぶな!」とまで言ってくる人まで出てきたのに至っては、笑うしかなかった。

 因みに、シゲカツ氏はアンチ立憲の人間である。

 シゲカツ氏は川田龍平氏よりも野田佳彦首相の方がマシだと言っている。野田佳彦首相を消極的に支持すると言うのはアンチ立憲ではないと言われるかもしれないが、別のツイートではなんと社会民主主義を目指せと言っており、こう言う風に相反する注文(というよりも、イチャモン)を付ける人のことをアンチとか迷惑クレーマーという。

 なお、政治家を先生と呼ぶことの是非は過去に公式サイトで論じている。

hinotomoki.amebaownd.com

 政治家の神格化がいけないと言うのが、もっといけないのは悪魔化であろう。

 家庭連合(旧統一教会)みたいに対立陣営を「サタン」扱いするような勢力はカルトである。

 さて、かつて古寺多見氏( id:kojitaken )は左翼にしては客観的な事実関係を述べているので彼のブログは重宝していたが、泉健太先生が代表になって以降は泉健太先生が自民党と組むのではないかと言う妄想に憑りつかれたようで、遂にはカルト化一歩手前のこんな言葉を口にしている。

顔写真を見るだけで吐き気を催す人間として泉健太がいる。(出典

 私がこれで連想したのは、『誰が小沢一郎を殺すのか』に載っていた、小沢一郎先生の顔を見るだけで不快感を抱く人たちであった。小沢一郎先生もマスコミの人物破壊攻撃により悪魔化されたのである。

 左翼界隈における泉健太先生への人物破壊攻撃は、まさに小沢一郎先生に対するものと同レベルで行われているのではないか、と思った。それは専ら泉健太先生が小沢一郎先生並みに素晴らしい政治家であるからであろう。

 私は逆に、泉健太先生のポスターを見ると思わず拝みたくなってしまう。

 こういうとまた左派からはカルト的だと言われるのであろうが、これは言うまでも無く天皇陛下御真影谷口雅春先生、谷口雅宣先生のお写真を見ると本能的に拝みたくなるのと同じような感覚であって、私はタイではラーマ10世殿下*1の写真を拝ませていただいたし、インドではアンベードカル菩薩(インド共和国初代法務大臣)の肖像画を拝ませていただいた。

 無論、ラーマ10世殿下もアンベードカル菩薩も尊敬する政治家だからその肖像を拝むのであって、インドでは公立学校でガンディーやネルーの肖像が掲げられているが、彼らがカースト制度維持派であったことを知る私はそれを見て金日成金正日の肖像を拝む「平壌政府」(自称「朝鮮民主主義人民共和国」)の学校を連想してしまった。

 言い換えると、私は泉健太先生をラーマ10世殿下やアンベードカル菩薩と同じぐらいに尊敬しているという事だ。

 それはともかく、古寺多見氏がそこまで泉健太先生を嫌っているのは、泉健太先生が維新と組む気であると妄想しているからのようである。

 しかるに、現在の立民代表・泉健太は維新にすり寄るばかりで、あれでは泉自身が(ブルーリボンバッジをつけて右翼であることを誇示しているばかりか)根っからのネオリベラリストではなかろうかと疑わずにはいられない。

 泉が代表になってからの立民は、かつての民主党結党時に先祖返りして新自由主義色を強めているとの指摘は結構見かける。この指摘は正鵠を射ていると私は思う。

kojitaken.hatenablog.com

 青で太字にしたところは、まさに妄想も良いところではないか。泉健太先生の経済政策のどこに新自由主義色があるのか。

 小沢一郎先生を左翼扱いするネトウヨとリベラルの共同謀議に惑わされず、小沢一郎先生が今でも保守であることを見抜いていた古寺多見氏も、泉健太先生に対してはかなり評価が歪んでいると思わざるを得ない。

 岸田文雄首相の言う「資産所得倍増論」こそ、私には新自由主義的だと思うが、それにしても泉健太先生の政策のどこに新自由主義の要素があったのだろうか?記憶に一切なくて困る。

 コンビに加盟店ユニオンの酒井孝典先生の公認を主導したのが泉健太先生であることでも判るように、泉健太先生は非正規労働者や事業労働者、中小零細企業の側に立つ方であった。

 泉健太先生の主張は所得の再分配を重視する立場であるから、新自由主義に定義することは出来ないことは明白だ。

 一体、泉健太先生のどこを新自由主義扱いしているのか、気になって彼のブログを検索したが、根拠となる記事は出てこなかった。ただ、古寺多見氏の妄想的な記事は出てきており、この方は物事を客観的に見れている方だと思っていたが、左翼にありがちな妄想癖から抜け出ることは出来なかったのか、それとも、泉健太先生への嫌悪感から妄想が出てきてしまったのか。

 その妄想記事がこちらだ。

 日本では1980年代末頃まで年数を元号で表記するのが一般的で、西暦ばかり使っていると「左翼ではないか」と警戒された。しかし、今では元首相・安倍晋三が国会の答弁でしばしば西暦を用いた事実にも反映されている通り、西暦を使う方が当たり前で、元号は某政党(組)の名前か役所に出す書類くらいにしか使われない。元号と西暦との関係は「自由主義」と「資本主義」との関係に似ている。

kojitaken.hatenablog.com

 私はその時代の日本は左翼に支配されており、「天皇陛下万歳」と言うだけで極右扱いされたと聞いているが、この方は1940年代と1980年代を間違えてはいないか、心配になる。

 年号使用など元から天皇陛下の臣民であることを示すパフォーマンスに過ぎないが、まぁ西洋人の使う西暦を押し付けられるのは私も不快だ。とは言え、私も日常では西暦を使っている。

 話を戻すと、上記記事は古寺多見氏のブログの中で「泉健太」と「新自由主義」の双方の言葉で検索してヒットした記事なのだが、泉健太先生が新自由主義者である説明は無かった。やはり泉健太先生が新自由主義者である根拠は古寺多見氏も持ち合わせていないのであろうし、少し冷静になってほしいものである。

 

*1:国王に対しての称号は陛下ではなく殿下であるべき。公式サイトにも書いた。