意外な偉人――聖徳太子の素顔
聖徳太子については「やはり偉人だった」と思う。ただし、多くの人がイメージするのとは違った側面が多い。
まずは両親の方からイメージが崩れる。
聖徳太子の両親って、小説やドラマでは好意的に描かれるけど、史料を読めば読むほど「(控え目に言って)トンビが鷹を生んだ」という評価しかできない。
あの時代のオンライン小説を書こうとしてビビったことがある。
「え?え?え?・・・・本当に聖徳太子の両親!?」って感じですね。
父親の用明天皇は仏教を初めて認めた天皇と言うことで称えられるけれど、斎宮を襲った悪名高き皇族が即位した最初の例でもある。
一方の母親は夫と別の妃の間に産まれた義理の息子と再婚する。
子供向けの聖徳太子の伝記を読んだ時と全く印象が違ったけれど、大人向けの小説を読んでも子供向けの話と大して変わらない内容。
一方で歴史学界は、というと「聖徳太子ではなく厩戸王だ!」という下らない議論で歴史教科書を巡る論争をしているんですからね・・・・。これは歴史学者と言うよりも、一部の変人を相手にしている行政が悪いのだけれども。
「聖徳太子はいないけれど、厩戸王はいた」って、「真田幸村はいないけれど、真田信繫はいた」というのと同じぐらいの詭弁。
「後世聖徳太子と呼ばれた人はいたんでしょ?誰でも聖徳太子が追号ということぐらいは知っとるわ!」と言えば簡単に論破できることで行政はいつまでも議論しております。
一方で九州王朝説は『史学雑誌』にも掲載されたことのある学説なんだけどスルーしていますね。まぁ、それはいいけれど。
まさか子供たちが読む歴史教科書に
「聖徳太子の父親は伊勢神宮の斎宮を襲いましたが、蘇我氏のごり押しによってめでたく天皇に即位しました。父親がなくなると母親は聖徳太子の異母兄と再婚しました。」
等と書くわけにはいかないが、こうした話は聖徳太子の名誉になる話ではないことは言うまでもない。だいたい皇族の恥とも言える話である。
つまり、後世の造作ではなく史実の可能性が高いのだ。
そういう環境の中で聖徳太子は偉人に育った。やはり後世に「聖徳太子伝説」を遺すだけの素質があったのだと思う。
母親の話にも関連するが、聖徳太子のお墓は叡福寺と言うお寺にある。
叡福寺には岸信介元総理の筆による「聖徳廟」との額がある。
そして叡福寺の奥に宮内庁の管轄となっている聖徳太子の陵墓参考地がある。
このお墓には3人の方が埋葬されている。叡福寺側は聖徳太子とその母親、そして妃の一人である膳夫人だろうとしているが、それは少し怪しい。詳しくは別の機会に述べたい。
もっとも叡福寺が聖徳太子の菩提寺であることはほぼ確実であると思われる。
聖徳太子の事績の多くは九州王朝からの盗用である。
いわゆる「遣隋使派遣」も史実ではない。『日本書紀』にあるのは「遣唐使」であって、しかもその内容は「朝貢外交」であり、「日出づる処の天子」等と言うのは片鱗も姿も見せない。
「中国に対等外交を迫った偉大な指導者」と言うのは『日本書紀』にも載っていない、後世の史家による妄想である。あれは本来、上宮法皇という九州王朝の天子の話だ。
上宮法皇も今では聖徳太子と同一人物だとされている。その根拠になっているのが『上宮聖徳法王帝説』だ。
「上宮法皇」と書いてしまうと聖徳太子は皇太子であって天皇ではないのだから、明らかに別人とバレてしまう。そこで「上宮法王」とした。皇太子を「王」や「大王」と呼ぶのは例があるからだ。
そして上宮法皇の崩御の年月日と聖徳太子の薨去の年月日は全く異なるのだが、それも無理矢理合わせた。
そのため『上宮聖徳法王帝説』に引用されている「天寿国繍帳」は本来「400字」丁度だったのが、聖徳太子の亡くなった年月日を改竄するために「401字」になってしまった。
「天寿国繍帳」は聖徳太子の妃の一人である橘太郎女が作ったものである。聖徳を称える曼荼羅だが、玉虫の羽で作ったといわれている。現存しているのは残念ながら一部だけなので、その内容を知る手がかりである『上宮聖徳法王帝説』が内容を改竄引用しちゃっているのは困る。
だが、これは裏返せば年月日以外の部分は正確な可能性が高い、ということである。事実、「天寿国繍帳」は現物が一部残っているため、『上宮聖徳法王帝説』の内容が概ね正しいことは確認できる。
この「天寿国繍帳」には膳夫人の記述はない。これも膳夫人と聖徳太子が合葬された可能性を否定する根拠の一つである。
さて「天寿国繍帳」を見ると聖徳太子が宗教者として優れた人物であることがわかる。聖徳太子の思想は次の言葉に要約される、と言うのだ。
「世間虚仮、唯仏是真」(現象の世界は仮の姿であり、ただ仏のみが真実存在である)
唯神実相の真理を聖徳太子は理解されていたのである。
聖徳太子は日本仏教の祖とも言われている。
九州王朝にも仏教は伝来していたはずで、観世音寺は九州王朝が滅亡した後も力を持っていたのだが、平安時代以降は聖徳太子の影響力は大きくなる。
実は叡福寺は真言宗である。理由は空海が「私は聖徳太子の生まれ変わりである!」と宣言したことによる。
それが事実かどうかは空海の守護神である清瀧権現に聞いてほしい。とあるスピリチュアル系のブログには聖徳太子の守護神も清瀧権現だと書いてあったが、文献上の根拠はない。
そして見真大師親鸞も立正大師日蓮も、みんな叡福寺にお詣りしている時に聖徳太子から啓示を受けたという。二人とも天台宗系なのだが、当時の宗派は学閥みたいなものであった。
親鸞は聖徳太子のことを「和国の教主」と呼んで崇敬した。聖徳太子信仰は真言宗が始めて浄土真宗が強化したのである。
一方、日蓮も聖徳太子のことを尊敬していたし夢に現れた時には喜んでいたのだが、いざ『法華義疏』を読むとどうも違和感が湧いてきたようだ。
というのは『法華義疏』には天台教学がないのである。これはオカシイ、天台大師よりも聖徳太子は後世の人物である。
日蓮聖人は天台宗の人間であることを自負していた。『法華義疏』に天台大師の教学が記されていないことに日蓮聖人は批判を加えている。
確かに『法華義疏』が聖徳太子の著作であるならば、あれだけ遣唐使(繰り返すが遣隋使では、ない。この時代の『日本書紀』の編年はズレている。)を繰り返し派遣し、高句麗僧の慧慈に仏教を習った聖徳太子が天台大師の教えを知らないわけがない。
もしも慧慈が天台大師の教えを知らず、小野妹子も天台大師の教えに関心を持たなかったにしても、遣唐使に派遣された留学僧たちは天台大師の教えの素晴らしさに気付いたはずである。それに耳を傾けなかった聖徳太子は本当に偉人なのか、という議論が湧いてもおかしくない。
だが、そもそも『法華義疏』は聖徳太子の著作ではないのである。
九州王朝の上宮法皇が「収集」してきた本だ。詳しくは古田武彦先生の「法華義疏の史料批判」をお読みいただきたい。
誤解してはいけないのは、世間でいう聖徳太子のイメージが間違っているからと言って、それが聖徳太子架空説や聖徳太子非偉人論の証明にはならないということだ。
唯神実相の真理を「世間虚仮、唯仏是真」という形で言葉に残したのは、我が国では聖徳太子が最初である。やはり聖徳太子は偉人であるし、その素晴らしさがわかった弘法大師や立正大師、見真大師も素晴らしい宗教家だ。