すべての「いのち」のために

日本SRGM連盟代表・日本アニマルライツ連盟理事・日本優生思想研究所研究員の日野智貴のブログです。いのちに線引きする「優生思想」に断固反対!(記事内容は所属団体の公式見解とは無関係の個人的見解です)

古寺多見氏が私からの指摘を受けて初歩的な間違いのある記事を削除

 アンチ立憲民主党社会民主党の消極的支持者である古寺多見氏( id:kojitaken )が昨夜のブログ記事で次のような追記をしている。

 初めに言っておくと、これは古寺多見氏なりに誠実な態度であると思う。

[本論とは関係ない追記]

 先ほど内容に重大な誤りを含んだ記事を公開してしまいましたが、その記事を削除しました。その内容に関しては別の記事を明日以降に公開する予定です。その時点で思わせぶりなこの追記を削除します。今夜は残念ながらもう時間がありません。

kojitaken.hatenablog.com

 この措置に私は驚いた。

 その「重大な誤り」は私が指摘したものであるが、古寺多見氏は誤りを見つけるとその部分に横線を引いて訂正するのが通常であるからだ。

 もっとも、古寺多見氏の当該記事にはウェブ魚拓が残っている。

web.archive.org

 古寺多見氏による「重大な誤り」と言うのは、当該記事のこの部分だ。

 上記松尾氏のnoteで釈然としない点が一つある。

 それは、長谷川羽衣子氏が立命館大学大学院に進学するのであれば、単にローテーションの順番を飛ばしてもらって4番目(2026〜27年)または最後の5番目(2027〜28年)に回してもらえないかと×××新選組の組長もとい代表の山本太郎に申し入れるのがもっとも自然なやり方ではないかと思うのだが、なぜ誰でも思いつきそうなこの方法に触れないのだろうということだ。ローテーション制が法律に定められているわけでもなんでもないのだから、順番を入れ替えることに何の問題もなかろうと思うのだけれど。

 これについて私はブックマークで次のように指摘した。

松尾匡氏が "長谷川羽衣子がウチの大学院に来ます——「れいわローテーション」を企むはずがない" と題したnoteを公開した - kojitakenの日記

ええと、れいわ新選組を擁護する訳じゃないけど、比例代表の順位は非拘束名簿式であっても決まっているので古寺多見さんの言う「順番を入れ替えることに何の問題もなかろう」は間違いです。知らないはずが無いけど。

2023/03/05 22:28

b.hatena.ne.jp

 私はれいわ新選組については「野党共闘に協力するならば仲間、妨害するならば敵対」というスタンスでいるので、れいわ新選組を擁護する動機はどこにもない。むしろ、大島九州男先生は旧国民民主党の仲間であるから、れいわローテーションには「残念」であるとすら思っている。

note.com

 だが、それとこれとは別問題だ。私はTwitterでも次のように指摘した。

 私は「初歩的なことを古寺多見さんが知らないはずが無い」と書いた通り、当初は古寺多見氏による意図的なものであると思っていたが、どうやら本気で間違いであったようだ。

 私からの指摘を受けて即座に記事を削除したことは古寺多見氏なりの誠実さであると思う。もっとも、「日野智貴からの指摘で訂正した」ということを古寺多見氏が認められるかどうかは別問題であるが。

 過去にも佐藤公治先生についての間違いを私に指摘されたが、その時は次のような態度であった。

 因みに、この時の私の指摘はこちらである。

2022年の参院選の比例票は19都府県で維新が立民を上回った。東京も神奈川も維新が立民を逆転し、愛知でも維新が立民に肉薄した - kojitakenの日記

佐藤公治先生は一度もレイワ神仙組に所属していたことはなく、それどころか希望の党に入っていたので、彼が山本太郎系と言うのは真っ赤なデマ(山本太郎議員は反希望だった)。立憲ナビも彼を黄色で塗るべきだ。

2023/01/08 10:25

b.hatena.ne.jp

 ブログへの直接のコメントにもブックマークにも私以外に指摘している人がいないから、明らかに私の指摘で訂正しているのだが、日野からの指摘であることを古寺多見氏は中々認めたくないのであろう。

 古寺多見氏は権力というものについての考察が深く、権力を毛嫌いしている結果却って権力が見えていないリベラル派ブロガーと比べて真っ当な記事を書いているが、民主党系(特に小沢一郎系)の政治家が関わってくると変な記事を書くことがある。

 まぁ、それでも、小沢一郎先生が保守派であることを認識されているだけ、多くの左翼やネトウヨよりも百倍マシではあるのだが。

竹島問題をどのように捉えるべきか

 今日は竹島の日です。立憲民主党からは代表政務室長代理の重徳和彦先生が竹島の日記念式典に参加されました。

大韓民国が実効支配しているわが国固有の領土である竹島

 平成24年(西暦2012年、皇暦2672年)に「政府主催の竹島の日記念式典」の開催を公約とし、しかも「公約には出来る事しか書かない!」と豪語した方は、10年近く経っても公約を実現することなく凶弾に倒れました。

 その方がかつて総裁であった政党は、故人の意思を継いで公約を実現する気かと思いきや、県の主宰する竹島の日記念式典に一年生議員の政務官自民党二階派所属)が出席するに留まりました。国としては竹島の日の記念式典を未だに開催していません。

 私も死者に鞭を打つ気はありません。故人を尊重するからこそ、故人が「出来ることしか書かな」かった公約をきちんと実現してほしいものです。「出来ることをやらない」政治家は我が国に不要です。

 とは言え、竹島問題は一筋縄ではいかない問題です。

 というのも、歴史的に竹島が日本の領土であることは疑いようがないと私は考えておりますが、竹島と韓国本土の間にある鬱陵島については古来より日韓の間で係争地であり、最終的に李氏朝鮮の帰属を日本が認めたという経緯があります。

 韓国側はその際に当時松島と呼ばれた今の竹島も朝鮮のものになったと主張しています。私はそれについては韓国側に十分な論拠があるとは考えませんが、ただ日本が韓国との国境線を画定した時に韓国が日本の事実上の保護国であったという事実があり、韓国側が感情的な反発をするのは止むを得ないことであるとも考えます。

 なお、私が少しでも韓国に好意的な発言をすると「お前は特亜の味方か!」等と言ってくる方がいますが、私は愛国心を持つことは美徳であると考えております。日本人でありながら『日韓慰安婦合意』を締結した売国政権を支持するようなネトウヨの皆様よりかは、「独島」の領有権を主張する韓国人の方が、遥かに立派な人間です。

 しかしながら、韓国側が過去の日本の行為を非難するのであれば、我が国も過去に日本がアメリカの占領下に置かれている時に「李承晩ライン」を設定して竹島を含む海域で韓国が一方的に武力行使をしてきた事実に触れざるを得ません。

 日韓関係はこうしたお互いの行為に就いて互いに許し合うことで『日韓基本条約』を締結することになったはずであり、そのことが日韓関係の基盤です。

 領土問題では言うべきことは言わなければなりませんから、政府主催の竹島の日記念式典の開催は必要であると、私は考えます。

 ただ、竹島問題によって日韓の友好関係が損なわれたり日本民族朝鮮民族の対立が深まったりすることが無いように配慮する必要はあります。在日朝鮮民族の多くが日本国籍を取得しているという事実もあります。

 私が気になるのは、ここ十年ぐらいのトレンドとして竹島問題と拉致問題とを結び付けて朝鮮民族への差別を煽る言動があるという、残念な事実です。

 先日もあるネトウヨ竹島問題を理由に「北朝鮮から韓国へミサイルが飛んでも日本は助けるな」等とツイートしていました。「平壌政府」(自称「朝鮮民主主義人民共和国」)が韓国を侵略した際に「竹島問題が解決していないので」という理由で韓国の人を見殺しにすることは、果たして道義的にも国益的にもどうなのでしょうか?

 捕捉すると、かつて我が国は「夫婦の国」である任那を侵略した百済を唐から守るために戦った国です。昨日の敵が今日の味方になることも理解できない方に政治や外交を語る資格はありません。

 朝鮮学校の問題でも、「平壌政府」の支配下にある朝鮮学校に在日朝鮮民族の方が通っている最大の理由は韓国学校の不足にあるのですから、我が国は韓国学校の建設促進を支援した方が「平壌政府」の在日朝鮮民族への影響力低下にも繋がり国益に適うことのはずですが、そのような議論が行われていないのは残念です。

 言うべきことは言い、連携するべきは連携することが、もっとも日本の国益に適うことは言うまでもありません。

泉健太先生の「顔写真を見るだけで吐き気を催す」(古寺多見氏)レベルに達したアンチ立憲(呆)

 泉健太先生について「菅原道真公と同じ意味合いで神」と言うと、なんと普段「野党共闘!」を言っている左側から糾弾される時代になってしまった。

 私のこれらのツイートをどう誤読したのか、「政治家の神格化は良くない」と言ってくる人がいる。

 それどころか、なんと「政治家を先生と呼ぶな!」とまで言ってくる人まで出てきたのに至っては、笑うしかなかった。

 因みに、シゲカツ氏はアンチ立憲の人間である。

 シゲカツ氏は川田龍平氏よりも野田佳彦首相の方がマシだと言っている。野田佳彦首相を消極的に支持すると言うのはアンチ立憲ではないと言われるかもしれないが、別のツイートではなんと社会民主主義を目指せと言っており、こう言う風に相反する注文(というよりも、イチャモン)を付ける人のことをアンチとか迷惑クレーマーという。

 なお、政治家を先生と呼ぶことの是非は過去に公式サイトで論じている。

hinotomoki.amebaownd.com

 政治家の神格化がいけないと言うのが、もっといけないのは悪魔化であろう。

 家庭連合(旧統一教会)みたいに対立陣営を「サタン」扱いするような勢力はカルトである。

 さて、かつて古寺多見氏( id:kojitaken )は左翼にしては客観的な事実関係を述べているので彼のブログは重宝していたが、泉健太先生が代表になって以降は泉健太先生が自民党と組むのではないかと言う妄想に憑りつかれたようで、遂にはカルト化一歩手前のこんな言葉を口にしている。

顔写真を見るだけで吐き気を催す人間として泉健太がいる。(出典

 私がこれで連想したのは、『誰が小沢一郎を殺すのか』に載っていた、小沢一郎先生の顔を見るだけで不快感を抱く人たちであった。小沢一郎先生もマスコミの人物破壊攻撃により悪魔化されたのである。

 左翼界隈における泉健太先生への人物破壊攻撃は、まさに小沢一郎先生に対するものと同レベルで行われているのではないか、と思った。それは専ら泉健太先生が小沢一郎先生並みに素晴らしい政治家であるからであろう。

 私は逆に、泉健太先生のポスターを見ると思わず拝みたくなってしまう。

 こういうとまた左派からはカルト的だと言われるのであろうが、これは言うまでも無く天皇陛下御真影谷口雅春先生、谷口雅宣先生のお写真を見ると本能的に拝みたくなるのと同じような感覚であって、私はタイではラーマ10世殿下*1の写真を拝ませていただいたし、インドではアンベードカル菩薩(インド共和国初代法務大臣)の肖像画を拝ませていただいた。

 無論、ラーマ10世殿下もアンベードカル菩薩も尊敬する政治家だからその肖像を拝むのであって、インドでは公立学校でガンディーやネルーの肖像が掲げられているが、彼らがカースト制度維持派であったことを知る私はそれを見て金日成金正日の肖像を拝む「平壌政府」(自称「朝鮮民主主義人民共和国」)の学校を連想してしまった。

 言い換えると、私は泉健太先生をラーマ10世殿下やアンベードカル菩薩と同じぐらいに尊敬しているという事だ。

 それはともかく、古寺多見氏がそこまで泉健太先生を嫌っているのは、泉健太先生が維新と組む気であると妄想しているからのようである。

 しかるに、現在の立民代表・泉健太は維新にすり寄るばかりで、あれでは泉自身が(ブルーリボンバッジをつけて右翼であることを誇示しているばかりか)根っからのネオリベラリストではなかろうかと疑わずにはいられない。

 泉が代表になってからの立民は、かつての民主党結党時に先祖返りして新自由主義色を強めているとの指摘は結構見かける。この指摘は正鵠を射ていると私は思う。

kojitaken.hatenablog.com

 青で太字にしたところは、まさに妄想も良いところではないか。泉健太先生の経済政策のどこに新自由主義色があるのか。

 小沢一郎先生を左翼扱いするネトウヨとリベラルの共同謀議に惑わされず、小沢一郎先生が今でも保守であることを見抜いていた古寺多見氏も、泉健太先生に対してはかなり評価が歪んでいると思わざるを得ない。

 岸田文雄首相の言う「資産所得倍増論」こそ、私には新自由主義的だと思うが、それにしても泉健太先生の政策のどこに新自由主義の要素があったのだろうか?記憶に一切なくて困る。

 コンビに加盟店ユニオンの酒井孝典先生の公認を主導したのが泉健太先生であることでも判るように、泉健太先生は非正規労働者や事業労働者、中小零細企業の側に立つ方であった。

 泉健太先生の主張は所得の再分配を重視する立場であるから、新自由主義に定義することは出来ないことは明白だ。

 一体、泉健太先生のどこを新自由主義扱いしているのか、気になって彼のブログを検索したが、根拠となる記事は出てこなかった。ただ、古寺多見氏の妄想的な記事は出てきており、この方は物事を客観的に見れている方だと思っていたが、左翼にありがちな妄想癖から抜け出ることは出来なかったのか、それとも、泉健太先生への嫌悪感から妄想が出てきてしまったのか。

 その妄想記事がこちらだ。

 日本では1980年代末頃まで年数を元号で表記するのが一般的で、西暦ばかり使っていると「左翼ではないか」と警戒された。しかし、今では元首相・安倍晋三が国会の答弁でしばしば西暦を用いた事実にも反映されている通り、西暦を使う方が当たり前で、元号は某政党(組)の名前か役所に出す書類くらいにしか使われない。元号と西暦との関係は「自由主義」と「資本主義」との関係に似ている。

kojitaken.hatenablog.com

 私はその時代の日本は左翼に支配されており、「天皇陛下万歳」と言うだけで極右扱いされたと聞いているが、この方は1940年代と1980年代を間違えてはいないか、心配になる。

 年号使用など元から天皇陛下の臣民であることを示すパフォーマンスに過ぎないが、まぁ西洋人の使う西暦を押し付けられるのは私も不快だ。とは言え、私も日常では西暦を使っている。

 話を戻すと、上記記事は古寺多見氏のブログの中で「泉健太」と「新自由主義」の双方の言葉で検索してヒットした記事なのだが、泉健太先生が新自由主義者である説明は無かった。やはり泉健太先生が新自由主義者である根拠は古寺多見氏も持ち合わせていないのであろうし、少し冷静になってほしいものである。

 

*1:国王に対しての称号は陛下ではなく殿下であるべき。公式サイトにも書いた。

批判の理由が・・・(笑)

 トランスジェンダーを含むSRGMの当事者団体である日本SRGM連盟を「トランス差別関連団体」としているサイトがあったので、見てみた。

 すると拍子抜けした。トランス差別関連団体と銘打っておきながら具体的にどのような言動がトランス差別に該当するのか、を一切示していないのである。

(現在、アクセスしても繋がりにくいのでスクショへのリンクを貼ります。)

web.archive.org

 このサイトで掲げられている項目は「共同声明」「日野智貴代表」「Twitter」の3つだけだが、どの項目にも「これはトランス差別だ!」とは記されていない。トランス差別関連団体というのは単なるレッテル貼りと言うことか。

 「共同声明」の欄にはこう記されているのみである。

性自認の法制化等についての4団体の共同声明

女性スペースを守る会、一般社団法人芙桜会、白百合の会との共同声明を発表している

 あの共同声明がトランス差別でないことは言うまでも無い。

 そして「日野智貴代表」の欄の記述には笑ってしまった。

代表は反中絶・反フェミニズム・反ワクチン・生長の家信者・統一教会メディアに寄稿している日野智貴氏。

 まず、私は統一教会本体が発行したメディアに寄稿したことは一度もないからこれはデマである。

note.com

 しかし、それはおいておくにしてもここに列記された悉くがトランスジェンダーとは無関係の話題での私へのレッテル貼りであり、一体、何を以てトランス差別関連団体であると言っているのか、サッパリ判らない。

 しかも「反中絶」や「反ワクチン」を批判していることや反自民の宗教である生長の家を信仰していることを批判していることは、重要である。

 つまり、彼らは堕胎やワクチンには賛成の立場で、反自民の宗教に否定的な見解を持っているという事だからだ。

 よくぞ尻尾を出してくれたものだと思う。

 自民党の支持母体で堕胎や有害ワクチンを強力に推進している勢力がある。いや、支持母体というよりも、黒幕か。

 そう、彼らの正体は医療利権複合体である。トランスジェンダー云々はどうでもいいのが本音なのだ。

bousouwakoudo.hatenablog.com

 その観点から彼らが「トランス差別関連団体」として掲げている他の団体を確認してみると、例えばこんな団体があった。

・ふじみ野バプテスト教会

・ネオフラワーデモ茨木

ポルノ・買春問題研究会APP研

・日本アニマルライツ連盟

・東京強姦救援センター

 これらの団体はいずれも自民党や医療利権複合体にとって不都合な団体である。

 まず、ふじみ野バプテスト教会は日本バプテスト連盟に加盟しているプロテスタント教会で、日本バプテスト連盟は安倍首相の国葬に反対している他、生命尊重派団体「小さないのちを守る会」と協力している教団であり、自民党や医療利権複合体にとっては不都合な存在であると言える。

 ネオフラワーデモ茨木APP研反自民の立場に立つラディカル・フェミニスト団体である。

 また、日本アニマルライツ連盟動物の権利を守るために自民党批判をしている団体であるし、生命尊重の立場を明確にしているため医療利権複合体にとっても厄介な団体である。

 なお、TransWikiは何故か私を日本アニマルライツ連盟の代表扱いしているが(笑)、それは真っ赤なデマである。

 日本アニマルライツ連盟の代表は実名と顔写真を公表しているのだが、女性を代表扱いしたくないと言うミソジニストがこのwikiを編集しているのかもしれない。

 或いは、日本アニマルライツ連盟が「日野智貴一人」であるという大嘘(それも会員の写真を日本アニマルライツ連盟は顔出しで出しているのであるから、少し検索すればすぐバレる嘘)をついているあたり、この編集者は案外渡辺直弼氏本人かも知れない。

 渡辺直弼氏は日本SRGM連盟に対しても同様のすぐバレる嘘をついていることで知られる。

bousouwakoudo.hatenablog.com

 最後の東京強姦救援センターは日本最古の性犯罪被害者の救済団体であるが、これを彼らが攻撃する理由は不明である。

 敢えて言うならば、医療利権複合体が背景にあるとすると性暴力が減ると望まない妊娠も減るため、医療利権複合体が中絶で稼ぐことが出来なくなると言うあたりが本音かもしれない。

 いずれにせよ、このようにTransWikiが「トランス差別関連団体」としてレッテル貼りしている団体の多くは、トランス差別とは何の関連も無い団体であり、むしろ自民党や医療利権複合体と対立している団体が含まれたりしている。

 皆様はこのような卑劣なデマに騙されない様にしていただきたい。

 まぁ、このブログの読者の多くはこのようなデマに騙されるほどアホではないと思うが。

遂に玉木雄一郎先生まで「統一教会」扱いしだしたTRA

 私は過去にビューポイントと言う、検索しても出てこないようなオピニオンサイトに記事を寄稿していたことがある。

 日本SRGM連盟が結成されるよりも以前のことである。その当時の私は「ナショナルフロント」という政治団体の活動家であったが、全くの無名であった。

 無名とは言っても、ナショナルフロントは反レイシズム組織としてあのC.R.A.C(旧しばき隊)の野間氏のブログにも言及がある団体であり、だからなんかC.R.A.Cが私のことを差別主義者だとか何とか言っているらしいが、彼らは私が反差別側の人間であることを百も承知の上でデマを流しているのである。

  それはともかく、私が寄稿したビューポイントは世界日報社と言う新聞社が運営しており、この新聞社は家庭連合(旧・統一教会)の信者が運営している。

 もっとも世界日報社の公式サイトにはビューポイントへのリンクは貼られておらず、いわば朝日新聞論座、或いは、もう閉鎖されたが産経新聞とiRONNAみたいな関係であったのだろう。なお、私はiRONNAにも寄稿していた。

 私がiRONNAやビューポイントに寄稿していた理由は簡単で、記事を掲載してくれた数少ない媒体だからである。産経新聞社も世界日報社もどちらも安倍政権支持の媒体であるが、私は一貫して反安倍であり、産経新聞社や世界日報社の主張に賛同などしていない。況してや、世界日報社の社長が家庭連合の信者だからと言って自分までそっちの信仰に「改宗」するはずがない。

 ところが、私がビューポイントに寄稿していたことを理由に「日野は統一教会系ライターだ!」と言うデマをTRAが流しだした。それについては日本SRGM連盟として正式に反論している。

acecommunitywestjapan.amebaownd.com

  最近も私はTwitterでこう皮肉めいたことを書いた。

 玉木雄一郎先生に限らず、ビューポイントに寄稿していたり登場していたりしている人は数多い。

 が、呆れたことに、なんとTRAたちは玉木雄一郎先生までをも統一教会扱いしたようで、玉木雄一郎先生が公式にTwitterで説明する羽目になっている。

 私も国民民主党サポーターである政治活動家であるが、政治活動を担う上ではどんなメディアからの取り上げも歓迎せざるを得ない。

 政治活動家が自分たちを取り上げてくれるメディアに登場するのは至極当然のことなのであるが、TRAはこの判りやすい説明のツイートすらも理解できないようである。

 世界日報社と家庭連合とは別法人である上に、玉木雄一郎先生は世界日報社の主張に賛同しているとは一言も言っていないのであるから、これが家庭連合の権威付けにならないのは当たり前である。

 この人物も案の定、TRAであった。女性スペースを守る活動をしている生命尊重派のVOGEL1984氏をTERF扱いしている。

 さらに呆れたことには有田芳生氏までもがこんなことをツイートしている。

 まず、事実関係として世界日報は家庭連合の機関紙ではない。「事実上の機関紙」と言う論者はいるが、ハッキリと「機関紙」と断言することはデマを流していることになる。世界日報を見ても家庭連合の内部情報は一切伝わらないのである。

 次に有田芳生氏は安倍晋三元首相と統一教会の関係を矮小化してきた人間である。このことはnoteにも書いた。

note.com

 TRAや有田芳生氏は、玉木雄一郎先生のような保守系野党の人間を攻撃し、ついでに私まで標的にする。

 その目的が、保守分裂を防ぎたい自民党、本心ではトランスジェンダリズムを推進したい自民党の敵を潰すことである、というのは果たして考えすぎであろうか?

 いずれにせよ、このTRAの異常性はより多くの方に知っていただきたいと思う。

性的指向と恋愛指向の区別を「ごく少数の意見」として排除しようするwikipediaの一部編集者

 Wikipediaにおいて性的指向と恋愛指向の区別を「少数意見」であるという理由で削除している編集者が複数存在し、その内1人は「ノート:恋愛的指向」のページで公式に削除を提案しています。

 私にはWikipediaの編集方針など特に関係は無いのですが、その中にはアセクシャルやアロマンティックと言ったSRGM当事者の声を封殺する論理が含まれていたので、取り上げさせていただきたいと思います。

削除された記述とは?

 さて、削除されようとしている記述は、なんと私の団体についての記述でした。(笑)こうして議論になること自体、光栄なことです。

一方、性的指向と恋愛指向の混同に反対する当事者も存在する。2021年1月4日アセクシャルやアロマンティックを含む性・恋愛・ジェンダー少数者の当事者団体である日本SRGM連盟は「性的指向と恋愛指向の混同は人権侵害である」とする声明を出した。日本SRGM連盟は法務省性的指向を「人の恋愛・性愛がどういう対象に向かうのかを示す概念」としていることについて「広義の性的少数者への人権侵害を助長しかねない」としている。また、法務省性的指向の具体例を異性愛・同性愛・両性愛に限定していることについて「Aceスペクトラムの人たちについては、その存在すら認めていない」と非難している。同様の声明は従来のLGBT団体からは出されていなかったという。

 この既述なのですが、厳密にはいくつか問題点があります。

 これだけ見ると恰も日本SRGM連盟だけが性的指向と恋愛指向の区別を求めているかのようですが、実際には性的指向と恋愛指向の区別は多くのSRGM当事者が求めていることです。

 「同様の声明は従来のLGBT団体からは出されていなかったという」と言うのは、恐らくは『選報日本』の次の記事を出典としたものでしょう。

www.sejp.net

  この記事自体、「性欲を持たない人」と言ったようなやや不適切な表記が使われていますが、件の声明を黙殺するメディアが多い中、アセクシャルやアロマンティックの権利を誠実に考えてくださっているメディアであると言えるので、この点では文句を言っていません。

 さて、ここで同様の声明が他に例が無いというのは、公的機関等に対して抗議する声明が他に存在しないという意味であり、性的指向と恋愛指向の区別を求める意見自体は他にもありました。今このブログを読んでくださっているWikipedia編集者の方がいればその点を踏まえた加筆をして下されれば幸いです。

削除使用している理由がなんと「支持者がごく少数」!?

 さて、私が驚いたのが、その削除理由です。「ぽぽか」という編集者が次の理由で削除するべきであると提案しているのです。

    • 恋愛的魅力を感じる性別を「性的指向」とする定義が多数意見、「恋愛的指向」とする定義が少数意見であるため、「恋愛的指向」を自明視する記述は中立性を欠く
    • 性的指向(多数意見)」が性的魅力と恋愛的魅力を区別しているのは定義に「恋愛や性愛」と併記されていることから明らかであり、両者に同じ用語を割り当てることを「混同」と呼ぶことは実態に反しているうえ、さらに用語そのものが誤りであるかのような印象を与える
    • 性的魅力を感じる性別と恋愛的魅力を感じる性別に同じ用語を割り当てることが人権侵害であるとの意見は支持者がごく少数で、たとえ出典を明記したとしても「適当な重み付け」に反する

     

 そう、この「ぽぽか」さんは少数意見であるということを強調して削除しようとしているのです。

性的指向と恋愛指向の区別は本当に少数意見?

 そもそも、性的指向と恋愛指向の区別を求める意見は当事者の間では決して少数ではありません。日本SRGM連盟が目立っているのは当団体が約170人のメンバーを抱える、比較的規模の大きな当事者団体であるからですが、日本SRGM連盟以外にも性的指向と恋愛指向の区別をしている当事者関係のサイトを上げると次のようなものが出てきます。

jobrainbow.jp 

www.nijikou.com

nijikou.hatenablog.jp

jibun-rashiku.jp

marshmallow-qa.com

itashitakunai.com

 このように性的指向と恋愛指向の区別は多数の当事者によって主張されているものであり、こうした当事者の声を受けて当事者の全会一致で出されたのが、日本SRGM連盟の件の声明です。

acecommunitywestjapan.amebaownd.com

 こうした当事者の声が仮に「少数意見」だというのであれば、それは当事者時代が少数派であるからです。この「ぽぽか」さんのロジックは当事者の声を封殺するものであると言えます。

削除提案者はWikipediaでブロックされている編集者?

 さて、これについて驚いたのは、この「ぽぽか」さんという方、実はwikipediaで本当はブロックされている編集者であるということです。

 彼の利用者ページにはこう書かれてあります。

221.185.249.61(2021年6月30日~2021年7月1日)です。--ぽぽか会話) 2021年9月27日 (月) 13:13 (UTC)

 では、この「221.185.249.61」とは何者か、というと、まさに彼が投稿していた最終日である「2021年7月1日」から現在進行形でブロックされている編集者でした。

 2021年7月1日 (木) 11:05 ネイ 会話 投稿記録 が 221.185.249.61 会話 を1年ブロックしました (アカウント作成も禁止) (Blocked proxy: Vpngate VPN)

 ここには「アカウント作成も禁止」と書かれていますが、禁止されているアカウント作成をして投稿を繰り返すのは、Wikipediaの方針としてはどうなのでしょうか?

 しかも、彼の投稿は全て(例外なく)性的指向と恋愛指向とを区別している既述の削除に関するものです。

  その中には日本SRGM連盟とは全く無関係の団体の記述をも削除しているものまであり、彼が性的指向と恋愛指向の区別を記述することそのものを妨害しようとしていることは明白です。

 なお、その記述は別の編集者により復帰されましたが、ぽぽかさんは再度の削除を断行しています。ここまで執拗に削除を行うのは、少し異常です。余程性的指向と恋愛指向の区別が広まることが都合悪いのでしょうか?

 ぽぽかさんが他の記事の編集をしていないところを見ると、かなりこの分野のみに執念があることが判りますね。

削除提案者も「当事者の間では一般的」と認めている

 さらに驚いたのは、この削除提案者のぽぽかさん自身が、次のように記しているということです。

法務省が恋愛と性愛を個別に挙げているのは両者が一般的に区別されるからでしょう。むしろアセクシャルおよびアロマンティック当事者の間では恋愛的指向を使用するほうが一般的であり、使用しない人が不当な非難を受けかねないほどです。恋愛的指向の使用を主張する際には、そのような非難とならないよう表現に細心の注意を払っていただきたいです。

 仰られる通りです。私の団体の声明も当事者の間では一般的な考え方です。

 逆に、そのような当事者の間では一般的な考え方をどうして「ごく少数」の意見として削除しようとしているのか、理解に苦しみます。

 ぽぽかさんには当事者の意見を無視するべきだという信念があるのでしょうか?そのような信念をお持ちなのであれば、アセクシャルやアロマンティックを始めとするSRGM当事者にとっては看過できない話です。

人権と正統性

 

 最近Twitter上で、全労協で活動されていたマルクス主義の論客である登川琢人(敬称略、以下同)と興味深い議論をさせていただいているが、その中でも特に興味深い議論は人権をめぐる議論であった。

 私も登川も人権が普遍的なものであることであることは意見が一致しているが、「ならばどうして保守主義では天皇の権利と国民の権利が異なるのか」という問いかけが登川からあった。これについては私なりに回答はしたが、一度古典的保守主義の継承者たらんとする私の立場から人権論を書く必要があるように感じ、本稿を執筆させていただくこととした。

 私のような二十代前半の浅学の身で古典的保守主義について論じることは畏れ多いことであるが、古典的保守主義東京大学教授の宇野重規をして「今日の保守主義は、明らかに過去の保守主義とは異なる」[i]と言わしめる惨状であり、最早「過去」の思想として扱われてしまっている。そうではなく、この青い身においても古典的保守主義は生きていることを示すため、敢えて書かせていただいく次第である。

 

民主共和制の誤謬

 

 まず、人権論に入る前に言っておかなければならないことがある。

 天皇と国民が平等に(同等の)参政権を有するべきと言う主張、即ち、国家元首天皇である必要はなく、天皇だけでなく全国民が国家元首を選出する選挙人にも被選挙人にもなり得ると言う主張、つまり、国家元首を「民主的」に選挙で選ぶべきであるとするいわゆる「民主共和制」の主張は「道徳的に間違っている」という、厳然たる事実である。

 民主共和制が道徳的に正しいと言うのであれば、次の二つの命題を証明しなければならない。

 第一に、天皇よりも国家元首に相応しい人物が存在する、と言うこと。

 この命題が証明されない限り、民主共和制とは天皇よりも「相応しくない」人物を国家元首にする構想にほかならず、つまり、日本をより悪くする主張である。日本をより悪くするための主張が道徳的に間違っていること、言うまでも無い。

 第二に、国民が民主的に「天皇よりも国家元首に相応しい人物」を選出する保証がある、と言うこと。

 仮に天皇よりも国家元首に相応しい人物がいたとしても、もしも国民が国家元首に選ぶ人物が碌でもない人物、少なくとも「天皇よりも相応しくない」人物であれば、これまた民主共和制は日本をより悪くするための主張である、と言わざるを得ない。

 第一の命題については様々な意見があるであろうが、第二の命題について証明できたものは、管見の限りいないのみならず、そもそも証明できないことは明白である。

 今の永田町を見れば判る。国民が「民主的」にどのような人物を選ぶのかは、我々は敢えて言葉にせずとも体感として知っているのである。

 安倍晋三岸田文雄も、総選挙で国民の信任を受けたのである。自民党公明党の得票数は過半数に届かないと言うものもいるが、棄権を与党への消極的支持であると解釈すると(それ以外の解釈はしようが無いのであるが)圧倒的多数の国民が安倍晋三岸田文雄を選出することに同意した、少なくとも、積極的には否定しなかったのである。

 では、仮に民主共和制を導入して安倍晋三岸田文雄国家元首に選ばれたとしても、民主共和制論者はそのような制度を支持するのであろうか?そうであるとすれば、明白に天皇に劣る人物を国家元首にしようとしている人物であり、民主共和制が日本をより悪くするための主張であることを自白しているようなものである。万が一にも安倍晋三岸田文雄の方が天皇よりも国家元首に相応しいと言おうものならば、彼は正常な判断能力を失っている人間であるか、意図的に虚偽の事実を述べている人物のいずれかであること、言うまでも無い。

 このことを前提として(この導入でだいたい私の論点が見えてきたと思われるが)、本題である人権について述べたい。

 

天賦人権論

 

 まず、人権とは「勝ち取るもの」「与えられるもの」では無く「既に有しているもの」である。人権とは人間がアプリオリに有している権利である。これを天賦人権論と言う。

 このことは登川から異論もあるようであるが、人権についての保守主義のみならず一般に認められた定義であると考える。インターネット上の百科事典であるコトバンクの「人権」の項目[ii]をみると「人間が、人間として当然に持っているとされる権利。基本的人権。」(「精選版 日本国語大辞典」)や「人間が人間として当然に持っている権利。基本的人権。」(「デジタル大辞泉」)とあり、また「基本的人権[iii]の項目を見ると「人間である以上、かならずもっている権利をいう。単に人権あるいは基本権ともよばれる。個人はすべて生まれながらにして固有の、他人に譲り渡すことのできない権利をもっている。これが人権または自然権とよばれるものである。」(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)、「人が生れながらにして,単に人間であるということに基づいて享有する普遍的権利をいう。」「生れながらにして当然に人間としての権利を有するという天賦人権思想」(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)、「人間が人間らしく生きていくために必要な、基本的な自由と権利の総称。人間が生まれつき天賦(てんぷ)不可譲の基本的人権を持つということは、18世紀末の米国諸州憲法やフランス人権宣言(1789年)以来、各国の人権宣言や憲法に明記されてきた。」(「知恵蔵」)や「人が生まれながらにしてもち,国家権力によっても侵されることのない基本的な諸権利。基本権または単に人権とも。」(「百科事典マイペディア」)とある通りである。

 権利にも様々な種類があるから、人権については全ての人が「人間である以上」「生まれながら」に「当然に持っている」権利と定義して、他の諸権利概念と区別することが適切であると考える。

 この意味での人権思想の萌芽は一応、元禄2年(西暦1689年、皇暦2349年)にイギリスで制定された『権利の章典』にあると言うことが出来る。『権利の章典』は法典としては制定の形式をとったが、その内容の多くは「確認事項」であって「制定事項」では無い。

 また昭和23年(西暦1948年、皇暦2608年)の『世界人権宣言』においても「国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認」(外務省仮訳文[iv])したとあり、これまでも確認する人々がいた人権を「再確認」したのであって、従ってこの宣言に賛同しない国々が仮にあったとしても「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」(同)なのである。

 もしも人権が憲法や宣言があって始めて保証されるものであるならば、独裁国家無政府状態の地域には人権が適用されないことになってしまうが、そのようなバカなことは無い。人権は普遍的であるがゆえに、保証する者が仮にいなくても人権は守られないといけないのである。であるから、君主が国民の人権を侵害して、例えば有罪の判決が下る前に国民に罰金を支払わせていたイギリスにおいては、『権利の章典』で「刑罰の確定前の罰金などは違法であり、無効である」と国王に確認させたのである。このことは国王が認めてやっと「無効」になったのではなく、国王が認める前から本来無効であったことを確認したのであって、『権利の章典』にも「古来よりの権利と自由を擁護し、主張するために宣言する」とある通りである。

 人権の普遍性を主張するためには天賦人権論でなければならず、天賦人権論に立たないあらゆる論は人権の普遍性を否定することになる。そして天賦人権論の当然の帰結として、人権は定められるものでは無く、確認されるものであると言うことが出来るのである。

 

人権のその根拠による四類型

 

 さて、人権とは人間がアプリオリに持っている当然の権利であるが、ではどうして各人が人権を持っているのか、と言うその正統性の根源を考えると、人権はその正統性の根拠によって大きく次の四類型に分類できると考える。

 第一に、人間は皆かけがえのない個性を持った人格であるからこそ、有している権利である。これを「個性人格権」と名付ける。

 この権利は究極的には人間である事すらも権利主体の要件とはなり得ない。例えば「日野智貴」は「日野智貴」であるが故に「日野智貴」としての権利を行使するのであって、「日野智貴」が「日本人」であることも「人間」であることも「動物」であることも、究極的には生きている存在であるかどうかですら、問題にならない。「死人に口なし」と言う諺があるが、実際には死者への名誉毀損も罪に問われ得るし、仮に死者への名誉毀損をしても良いと言うような法があったとしても、そのような法は人権に反すると言わねばならない。

 この権利は『日本国憲法』第十三条における「すべて国民は、個人として尊重される」において確認された権利であり、これは「個人として」であって「人として」では無いことが重要である。自由民主党がこれを「人として」へと改訂しようとしていることは著名であるから、ここでは詳しくは論じない。

 第二に、人間は生物である、つまり、生きている存在であるからこそ(生命を表現しているからこそ)当然に有している権利がある。これを「生命表現権」と名付ける。

 従来の法学者は権利能力の主体であることの要件を「人格の有無」に求めてきたのであるが、人格は法律によっても扱いが変わるのであり、胎児のように限定的にしか権利能力の主体となり得ない存在についてはその人格の存在を認めるのか、否か、の議論が続いてきた。もっとも医療利権複合体とその別働隊であるプロチョイス勢力により胎児の権利は否認されてしまっているが、人権は全ての人間に与えられる権利である以上、いくら否認されても人間であれば胎児にも人権が与えられること、当然である。

 しかしながら、胎児に限らず人間以外の生命体についても当然「生きていること」ただそれだけで、法的な人格の有無に関係なく権利が認められなければならない。『世界人権宣言』第三条に「すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する」とあるが、動植物にも菌類にも原生生物にも「生命」があり「身体」がありまた彼らは自然界の法則に従って「自由」に生きているのであるから、この種の権利を人間のみに限定することは種差別である。もっとも自然界における「自由」には他の「生命」を奪って捕食することも含まれるから、この「生命表現権」の主張される場面は限られてくる。自然破壊等の場面においては「自然の生存権」と言う形で「生命表現権」が認められるべきであるが、人間中心主義である裁判所はそれを認めていない。

 第三に、全ての人間は動物である、私たちは「人間」であると同時に「動物」でもある、いわば「人間」を表現していると同時に「動物」をも表現して生きているのである。この全ての動物が有する権利を「動物の権利」(アニマルライツ)と言うが、動物を無人格とする考えが人口に膾炙している今においては、人間と動物との本質的同一性を前提とした用語である「衆生」を用いて「衆生表現権」とすることが適切であろう。

 アニマルライツを否定する者の中には肉食は人間の本能であると言うものがいるが、食欲は人間の本能であろうが、動物を殺すことは人間の本能ではない、むしろ、人間が本能的に忌避するところである。害獣駆除のために使命感を以て狩猟を行う者はいても、快楽目的で動物を撃ち殺すことを趣味としている者は、動物虐待者と同様の精神異常者であり、正常な判断能力を失ったもののみが行おうとすることは断じて「権利」では無い。令和元年(西暦2019年、皇暦2679年)に『やや日刊カルト新聞』の藤倉喜郎が「肉食は人間の尊厳そのもの」[v]と言って、動物の権利を守る観点から菜食を実践しているヸ-ガン[vi]には人間の尊厳が無いと言う極めて偏ったカルト思想を公言したのは記憶に新しいが、肉食をしなくとも人間が生きられることはヸ-ガンの存在そのものが根拠であるし、空海聖人や日蓮聖人と言った過去のヸ-ガンに人間の尊厳が無かったと言うものはいないであろう。なお、アニマルライツ思想を正面から否定した藤倉が人権侵害集団であるTRAに阿った記事を書いた事実[vii]は、アニマルライツヒューマンライツの関係を考える上で極めて示唆的である。

 『日本霊異記』には「仏は平等大悲の故に、一切衆生の為に正教を流布したまふ」とあり、仏は人間も動物も、それどころか天界の神々も地獄の者も全て「平等」に扱うと記されているが、これは大乗仏教の根本的な思想である。大乗仏教の菩薩戒でヸ-ガンであることが定められていることも偶然ではない。これについて「仏教思想は宗教であるから政治の世界に持ち込んではならない」と言う意見もあるかもしれないが、天賦人権論がキリスト教の中で唱えられた論理であるものの、その普遍性が確認されて非キリスト教徒の間でも用いられているように、衆生平等論も大乗仏教の教義を構成するものではあるが、非仏教徒にも適用されるべき普遍性があるのであれば、それは天賦人権論同様、積極的に認められなければならないのである。

 第四に、私たちは「人類」であることを表現しているが故に当然に有している権利がある。これを「人類表現権」と名付ける。

 いわゆる「精神の自由」は個性人格権を根拠とし、いわゆる「身体の自由」は衆生表現権を根拠として説明することも可能ではあるが、これらは「人間が人間として扱われること」を目的とした権利ではない。あくまでも「個体の権利」であって、自然界の中ではある個体がある個体に襲われたらそれに対して反撃して殺してしまうことも権利と言えるかもしれないが、それは「人間が人間として扱われること」にならないのである。人類社会においては人間が人間に襲われていたとしても被害者が加害者にどんな制裁でも加えられると言うのではなくして、加害者にも裁判を受ける権利が保障されなければならない。また動物が群れの中で弱い個体を捨てて生き延びるのも、自分が生き延びるために行使している当然の権利であると言えるかもしれないが、それを人類が行っても「人間らしく生きている」ことにはならないのである。

 多くの憲法学者は人権を「自由権」と「平等権」、「社会権」等に区分するのであるが、これを私は意味のある区分とは考えないのである。「個人としての自由」を言うならば人類社会から抜け出してどこかのジャングルの中で満喫すればよい話であるし、また「動物としての平等」を言うのであれば食物連鎖のある聖体形の中でオオカミやライオンと対等に渡り合えばよいのであるが、あくまでも「人間としての自由」「人間としての平等」を言うのであれば、それは「人類社会における権利」で無ければならず、従ってそれは「社会権」と一体のものである。社会権無き「自由権」や「平等権」は個体人格権や衆生表現権の類であり、それらは人間に人間としての幸せを与えないのであり、しかもそのような不完全な権利を人権として主張し人間以外の動物にそれを与えないことは種差別である。「人権」と言う以上は人類社会における権利が含まれなければならず、そして人類社会における権利にはいわゆる社会権が含まれなければ人権の意味が無い。

 従来の論者は人権のみを認め、動物の権利を一切認めず、場合によっては同じ人間であっても胎児の権利を積極的に否定し、また、人権思想を唱えつつ人権侵害たる徴兵制を積極的に擁護するものも存在し[viii]、そのせいで「動物には無い人間特有の権利とは何か」という問いが欠落していたのである。その問いがもしも存在すれば、仮に「人間特有の自由権・平等権」があったとしても、それはいわゆる社会権と不二の関係にあることが明白となっていたはずである。

 

人権と公民権との相違

 

 人権を考える上で重要なのは、人権と公民権とは異なると言う事である。

 今の日本において公民権は市民権(civil rights)の訳語としても使われているが、その市民権の定義を「コトバンク[ix]から引用すると「人間の天賦かつ不可譲の権利としての自然権とは区別される、実定法上の市民の権利」(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)である。ここで言う自然権は天賦の権利を指しているようであるから、要するに私が先ほど論じた人権とは全く異質の権利である。

 元々市民とは都市(city)の有産階級を指す言葉であり、人権のように人間が生まれながらにして持っている権利とは異なる。フランス革命を起こした連中も寛政元年(西暦1789年、皇暦2449年)に発表したいわゆる「人権宣言」の正式名称を『人間と市民の権利の宣言』とし、人間としての権利だけでなく「市民の権利」をも追加で認めさせたのである。これは英訳にするともっと露骨であり、「人間と市民の権利」は英語では「the Rights of Man and of the Citizen」と訳されている。「Man」は男性を指す言葉であって女性は含まれないし、「Citizen」は「cityの住民」であると以外の解釈は不可能である。私はフランス語が判らないので原典でのニュアンスは判らないが、恐らく同様の意味であるはずである。従ってこれは「女性と田舎者を除外した権利宣言」とでも言うべきものであり、人間が生まれながらにして持っている正統性のある権利では決してない。しかもフランス革命期の独裁者であるロベスピエールは黒人奴隷解放の宣言に賛成したダントンを「植民地の喪失をもたらす法令を通過させた」と言う理由で処刑しており[x]、さらに『人間と市民の権利の宣言』第十七条には「所有は不可侵のかつ神聖な権利である」と記されて専らこの権利が有産階級向けであることが明白になっており、「女性と田舎者と有色人種と無産階級を除外した権利宣言」と言うのがその実態であったのである。なお、そもそも地方の土地は貴族のもので農奴には土地の所有権が無く、また女性の財産権も制限されていたし、有色人種の奴隷が無産階級であったことは言うまでも無い。その後の「市民権」の拡大に専ら「有産階級の仲間入り」と言うニュアンスがあったことは想像に難くない。

 こうした経緯からも明白なように、市民権とは普遍的な人権とは異なり、都市部の有産階級にだけ与えられた一種の「特権」であった。貴族と市民とを合わせて自由民(freemen)と言い、フランス革命では一方で貴族の特権を廃止し一方で市民の特権を維持・拡大すると言う、誠に筋の通らないことが行われたのである。ただその後市民の定義の拡張により自由民の数を飛躍的に増やした効果はあるが、イギリスでは国王や貴族をギロチンに掛けることなくそれが行われたのであるから、結果的に自由民の拡大に寄与したことを以てフランス革命における正統性の無い暴力を正当化することは出来ない。なお、女性の参政権が認められたのはフランスよりもイギリスの方が早いこと[xi]からも明白なように、君主制や貴族制度の否定が市民権を享受する対象の拡大に繋がるとは、必ずしも言えない。

 古典的保守主義の祖であるエドマンド・バークは市民権が一種の特権であることを自覚していたからこそ、このように述べた。

 

マグナ・カルタから権利宣言にいたるまで、この国の憲法をなす法律には一貫した方針があります。それはわたしたちの自由を相続財産とすること、つまり祖先から伝えられ、また子孫に伝わるものとして自由を主張し、断言することでした。しかもその自由は、ほかの一般権や優先権とはかかわりなく、この王国の国民に特に帰属する財産であるものとして断言されるのです。

 これによって憲法には統一性が保たれ、しかもその各部に大きな多様性をもたせることができました。こうしてわたしたちには、自分たちが受けつぐ世襲の王と貴族の身分があり、遠い祖先の系譜から特権と市民権と自由とを受けついできた下院と民衆があるのです。[xii]

 

 

 ここでバークが述べている「一般権」とはいわゆる普遍的な人権のことであるが、バークはフランスの市民が一般権である人権を主張したことを否定しているのではなく、市民権と言う特権を何の正統性も無く振りかざして「自国の王を投獄[xiii]し、同朋の市民を殺害し」[xiv]たことを批判したのである。

 人権は一般的・普遍的なものであるが、市民権は国家の存在を前提としている。従って国家の存在を前提とする限り、市民権はアプリオリなものでは無い。市民権を主張したいのであれば、それは「既に市民権が与えられていた」という事実を主張するほかはないのである。

 仮に市民権が王権によって奪われたと言うのであれば、その市民権簒奪の不法性を訴えればよいことであった。しかし、自分たちの特権が簒奪されたことを不法と言う以上、当然他者の特権も簒奪してはならない、これは当たり前のことである。

 

 自国の前の世代があまりぱっとしないようにみえたのであれば、そこを飛び越えてもっと前の世代まで先祖をさかのぼり、その人びとの主張を自分たちの源とすることもできたのではないでしょうか。[xv]

 

 市民権とは本質的に国家の存在を前提とするものであるから、これを人権と解釈することは出来ない。人権は無政府状態であっても主張できるだけの正統性があるが、市民権の正統性はその国家の内部でしか通用しないのである。

 

日本における公民権の歴史

 

 日本における公民権の根源は、神武肇国の際の詔の次の一節である。

 

苟も民に利あらば何ぞ聖造に妨はむ。

 

 無論、これが神話であることは言うまでも無い。私は神武天皇実在説を唱えているが[xvi]、当時の大和政権は大和一国を支配したかも怪しい状態であり(大和以外の地域を支配したのは第十代崇神天皇の頃からであろう[xvii])、いわゆる大和朝廷の成立、つまり日本が天皇を皇帝とする国家(帝国)となったのは、大宝元年(西暦701年、皇暦1361年)の律令国家成立の時点であると考えられる。

 しかし、その後建国の理念として神武肇国の際の詔が正史に記録された以上、「民に利」あることが大日本帝国という国家のコンセプトに含まれることは言うまでも無い。そうした中で誕生したのが「公民」と言う階級である。

 律令国家において国民は大きく自由民である良民と非自由民である賤民とに分けられ、良民は貴族と公民、雑色人とに分けられた。雑色人は公民権の認められない自由民であったが、公民への編入を求める訴訟が頻繁に行われ、天平16年(西暦744年、皇暦1404年)に雑色人の身分が廃止され公民へと統一された。「公民権を有しない自由民」と言えばアメリカ合衆国においてはインディアンや奴隷解放後の黒人が長らくその地位にいた。その意味では雑色人による訴訟は我が国における公民権運動に近いものであったと言えるかもしれない。結果的に我が国の自由民は貴族と公民とで構成されることとなった。

 貴族と公民はどちらも政治に参画する権利を持っている。貴族と公民を分けるのは位階で、貴族は従五位下以上の位階を持っており、また子供に位階を世襲させる特権(蔭位の制)を持っていた。公民にはそのような類の特権は無かったが、政治的発言権はあった。

 公民は別名を百姓と言った。百姓は文字通り「百の姓」つまり様々な氏姓(clan name)を有する階級のことを指す。貴族も公民も氏姓を有していることがその絶対条件であり、氏姓を喪失すると貴族でも公民でも無くなる。つまり、賤民階級に落ちて自由民では無くなる。藤原氏が「放氏」という手段(氏族から追放し氏姓を奪う事)で特定の官吏を事実上罷免させることにより氏族の統制を行っていたことは知られている。氏姓の存在がいわば貴族と公民に与えられた“特権”の象徴であった。

 日本における公民と西欧の市民とは「非貴族の自由民」と言う意味では同じであるが、その成立過程には大きな違いが認められる。西欧の市民は都市部に住むが日本の公民は寧ろ地方に住む農民が圧倒的多数であり、また政府も公民に対して農地を支給していた(これは賤民にも支給されていたが)。従って、公民の別名である百姓が後に農民の代名詞となったのも、決して故無きことではない。西欧の農民は土地の所有権が貴族にある農奴であったが、日本の農民は公民の権限によって天皇より下賜された農地を耕作していたのであり、その農地の所有権は貴族には無かった。

 こうした原則が崩れるのが中世である。一般には鎌倉時代以降乃至院政期以降の荘園公領制の確立を以て中世とする論者が多いが、それは当時の日本がより西欧の封建制に相似した体制であったからであろう。しかしながら、農地の所有権を農民では無く貴族が有することが一般化している体制、つまり、大多数の農民が無産階級となっている体制を封建制と再定義するならば、それは延喜2年(西暦902年、皇暦1562年)に最後の班田収授を行われた時点、即ち、政府が公民に対する農地支給を諦めた時点が封建制の成立であり、それを以て中世の始まりとするべきである。

 平安時代に頻発した百姓による訴訟は、百姓による奪われた公民権の回復を求める運動であった、と評価できる。結局百姓が土地の所有権を回復するのはそれから数百年もたった豊臣秀吉による太閤検地を待たねばならず、また豊臣秀吉による太閤検地律令国家の時代に行われていた班田収授のような資産の再分配を目的としたものでは無く、そもそも資産の再分配という発想は最早当時の政府からも庶民からも失われて現代に至っているのである。こうして確立した近世の新しい封建制とは、土地の所有権は貴族から百姓に移る一方、武士がその知行地に属する百姓に対して課税権や行政権、司法権を行使すると言うものであった。なお、いわゆる藩主や彼に仕える武士には土地の所有権が無いどころか、村落毎の支配権すらも有しない。いわゆる藩は地方行政を担う機構ではなく、百姓への支配は属人的なものであって、一つの村落に複数の藩によって支配されている百姓が属していることもあった。

 近世の百姓が公民としての政治的権利を回復したのは、村落自治に留まる。しかしその村落の単位が武士による封建支配の属人的単位(いわゆる「藩」)と必ずしも一致しなかったことは特筆すべきことである。村はしばしば「播磨国揖東郡船渡村」のように律令国家以来の単位である国郡の下に自らを位置づけており、本人の意識に関わりなくそこに律令国家における公民の名残を見出すことは可能であった。江戸時代後期に国学が盛んになると公民が本来持っていた地位を自覚する百姓は少なくなくなり、朝廷や神社より位階を授けられて地下官人や神職となるものが出てきた他、天明7年(西暦1787年、皇暦2447年)に多くの百姓が飢饉からの救済を天皇に求める「御所千度参り」が起きたように、天皇から過去に授けられた公民としての政治的権利の回復を求める民衆が次第に現れるようになってきた。結果として民衆の糾弾の矛先は武力による封建支配を押し付けている幕府だけではなく、過去に公民としての権利を奪い国家を私物化した公家にも向かうようになる。彼らの運動が結実して、慶応3年(西暦1868年、皇暦2527年)の「王政復古の大号令」では幕府のみならず摂政関白をも廃止されたのであった。

 明治元年(西暦1868年、皇暦2528年)に明治天皇が『五箇条の御誓文』を著されその中で「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」と明記され「庶民に至るまで」公民権を回復することが明言された。これは名誉革命における『権利の章典』と同様、公民が本来持っている権利を確認したものであって、公民の権利を抑圧していた従来の封建体制こそが「舊來ノ陋習」であるとして何ら正統性を有しないものであるとして否定されたのである。

 

正統性のある権利

 人権とはどのような状況であっても人間が人間であれば当然に有している権利であって、如何なる場合においても人間は人権を主張する正統性を有している。これとはやや異なるのが公民権である。

 公民権は国家の存在を前提とした権利である以上、それはアプリオリに存在する権利ではなく、その正統性は国家の正統性と一体である。権力者が不当に公民権を侵害した場合においてはイギリスの名誉革命や日本の明治維新のように公民権があることを確認させることが認められるが、フランス革命のように国家自体を亡ぼしてしまうと却ってその公民権の正統性を証明できなくなる。

 保守主義が正統性を重んじると言うのはまさにこのことであって、革命と言うのは敵である権力者を亡ぼすと言う意味ではとても溜飲が下がることであるが、自分たちの正統性をも傷つける危険を常に孕んでいるのである。

 無論、フランス人はフランス人であるからフランス共和国の市民権を持つのは当然である、と言う理屈も或いは成り立つかもしれないが、その「フランス人」の定義すらも曖昧であることは、今のフランスの移民問題を見ても明白であろう。結局、移民たちから見るとフランス人が当然に有している市民権とは何ら正統性のない、ただ自分達よりも先にこの地に来たと言うだけの理由で与えられる「特権」の一種に過ぎないのである。

 私たちは「普遍的な公民権」など存在しない、ということをまず認識するべきである。仮に普遍的な公民権があるのであれば、それは世界連邦が実現した後のことであろう。

 保守主義において人権も公民権も既にある権利であって、それらは回復の対象であっても獲得の対象ではない。正統性の無い権利を主張する下克上は社会に無用な混乱を生み、却って不幸を増やすのである。

 

 

[i] 宇野重規(2016年)『保守主義とは何か』16頁

[ii] コトバンク「人権」https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E6%A8%A9-81632(2022年2月12日閲覧)

[iii] 同「基本的人権https://kotobank.jp/word/%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E7%9A%84%E4%BA%BA%E6%A8%A9-51583(2022年2月12日閲覧)

[iv] 外務省「世界人権宣言仮訳文」https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html(2022年2月15日閲覧)

[v] 藤倉喜郎・鈴木エイト(2019年)「声明」(「動物はおかずだ歩き食い祭り」)

[vi] ヸ-ガンは英語でveganと表記されており、これについてはやや侮蔑的に「ビーガン」と表記する者が少なくないが、そもそも「v」音と「b」音に共にバ行の表記を行うことを求める従来の国語政策が妥当か否かは異論のあるところである。この観点から「ヴィーガン」という表現を行う者も少なくないが、一般に「v」音は「w」音の濁音であると見做されていることに鑑み、我が国では「w」音はワ行の表記を行うのが原則であったところ、GHQによる占領政策によってワ行の仮名文字の一部が事実上廃止されてしまったと言う経緯があることから、そのような占領政策を拒絶する意味でも「v」音が子音の言葉はワ行の言葉に濁点を付けることで表現するのが望ましいと言え、一般に分かりやすくするためには「ヴィーガン」が良いとは思うものの、最適な表記は「ヸ-ガン」であるべきと考えた。

[vii] 拙稿(2021年)「【代表談話】藤倉善郎氏による偏向報道について」(日本SRGM連盟公式サイトhttps://acecommunitywestjapan.amebaownd.com/posts/24397054

[viii] ジャン・ジャック・ルソーが徴兵制論者であったことは著名であるが、現代日本憲法学者においても樋口陽一小林節との対談本である『「憲法改正」の真実』(2016年)において自身が護憲派であることを前提とした上で「もし改憲して専守防衛国防軍を作るというなら、その軍隊は国民主権の論理に基づき、徴兵制でなければならない」という旨、述べていた。これは徴兵制を採用している国民主権の国(韓国やロシア等)の国民による徴兵制廃止運動を正面から否定する論理であり、軍隊を廃止した日本においては人権思想と言いうるかもしれないが、全くその普遍性が無い理屈であると言わざるを得ない。

[ix] コトバンク公民権https://kotobank.jp/word/%E5%B8%82%E6%B0%91%E6%A8%A9-523890(2022年2月15日閲覧)

[x] 浜忠雄(2019年)「フランスにおける「黒人奴隷制廃止」の表象」『北海学園大学人文論集』66号

[xi] パリ・コミューンにおいて女性に参政権が認められたと言う主張もあるが、①パリ・コミューンは短期で終結した単なる反乱であること、②コミューン議会の選挙権は男子に限定されていたこと(高橋則雄2018年「パリ・コミューンの女性たち -「女性同盟」を検討する-」『専修総合科学研究』第26号)、等からこのことを以てフランスがイギリスよりも先に女性参政権を認めたとは到底認めることが出来ない。

[xii] エドマンド・バーク(1790年)『フランス革命についての省察』二木麻里訳(2020年)72頁

[xiii] バークが『フランス革命についての省察』を著した時点では、まだ「投獄」であった。この後「議会による裁判」と言う、司法権の独立など皆無な状況でルイ16世は処刑される。

[xiv] バーク前掲書87頁

[xv] バーク前掲書78頁

[xvi] 拙稿(2020年)「戦後学界は「神武天皇実在説」にどう反応したのか」『古田史学会報』161号

[xvii] 拙稿(2019年)「河内巨大古墳造営者の論点整理――倭国時代の近畿天皇家の地位を巡って」『古田史学会報』153号