すべての「いのち」のために

日本SRGM連盟代表・日本アニマルライツ連盟理事・日本優生思想研究所研究員の日野智貴のブログです。いのちに線引きする「優生思想」に断固反対!(記事内容は所属団体の公式見解とは無関係の個人的見解です)

人間が愛の体現者である実を失い動物性食品を食べると「生きながらの死骸」となる


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 私がかつて修行していた宝蔵神社の再興の祖である谷口雅春先生は美貫(ヴィーガン)に近い食生活を送っていました。そのことについて『生命の実相 頭注版』第11巻に次の文章がありましたので、やや長くなりますが引用させていただきます。(あまりにも長い文章ですので、私の方で適当に段落を分けさせていただきました。)

 関東震災前わたしが東京にいたころ、わたしは長い間慢性下痢にかかって、どうしてもそれが止まらなかったのであります。医者にいわせるとあなたの腸は非常に爛れているから、野菜は擂鉢ですってウラゴシ(頭注:餡などをこす器で、丸いわくに布・金網などをはったもの)にかけてたべなければならぬ、粥もふつうの粥では刺激分が多くていかんから糯米(もちごめ)の粥でなくてはならぬというほどの状態であった。

 そのころ、わたしは肉食は愛の道にかなわないという主張をすでにもっており、今よりもいっそう絶対菜食の生活を送っていたのでしたが、鶏卵だけは、まだ「生命」になっていないもの、たべても痛みも苦痛も感じないものであるから、これだけは動物性食品でも愛の道にそむかないという理由によって、植物性食品のほかには鶏卵を唯一の栄養物として摂取していたのであります。しかるにかくのごとき流動食をつづけるにもかかわらず、下痢は日々につづき身体は痩せ細って死も遠くはあるまいと、心の底にひそかに死を期待していたのでした。

 そのころ、わたしは浅草である古本屋の前を通りかかった、その時ふと神の黙示のようにわたしの心を引きつけた書物があった。それはたしか『高野式食物抵抗療法』という本であった。わたしはその一冊を買って帰ると貪るように読んだ。軟かい食物ほど、胃腸に与える物理的刺激が少ないので胃腸の機能をかえって弱らすこと、食物はなるだけ固い植物性のものがよいこと、胃腸病者に動物性食物はたとい鶏卵、牛乳といえども消化を誤らせて激しい毒素を腸の中で造るから、その毒素の化学的刺激で慢性下痢はかえって止まらないのであることなどが強調してあった。

 わたしは大いに感じて、その翌日から前日の粥食と卵食とをスッカリ廃し、主食には麦飯の焼き握飯をボリボリ噛んで食べ、菜にはひじき、牛蒡ごぼう、沢庵(たくあん)漬けなどできる限り固いものを食べ、しかも食後胃袋の上を強く掌で撫で下げて、胃袋の中の固い食物が胃壁に摩擦してゴブリゴブリ音を立てるほどにしたところが、その翌日からピッタリと長期間の慢性下痢が止ってしまったのであります。むろん、これはわたしが、その書を読んで非常に感激して心機一転し、「胃腸の弱いものは軟いものを食べよ」という在来の医家の学説に捉われなくなり、胃腸は固い食物によって弱るような不完全なものではないということを悟ったことにもよりますが、一方においては自分の今までとっていた唯一の動物食たる鶏卵を廃したことも、この病気の治癒を速めた一つの原因だとみとめなければならないのであります。

 われわれが動物性食品をとらないで、植物性食品をとるように、神が天地創造の時から定め給うているということは天地創造の神が、愛の神であり、人間をば「愛の神の肖像(にすがた)」としてその愛の体現者であるように創造(つく)られたからであります。人間が愛の体現者として創造(つく)られたということは、なんというわれわれにとって幸福(しあわせ)なことでありましょう。人間が愛の体現者である実を失うとき、人間はその使命を失い、生命を失い、生きながらの死骸となるのであります。栄養食をとっていっそうながく生きながらえんと望みながら、われわれが愛の使命を失い、生きながらの死体となるならば、われわれは形骸だけ生きのびていて、なんの甲斐がありましょう。

 この様に雅春先生は鶏卵や牛乳も食べない、美貫(ヴィーガン)の生活こそが愛の道に適った生活であることを述べておられるのであり、雅春先生の孫の谷口貴康先生も著書に自分が一切肉食をせずに育てられたことを記されているのです。

 それで、同じく雅春先生の孫である谷口雅宣先生もノーミートを推奨されておられるのです。


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 ところで、こういうと「肉食が愛の道に適わないと言っても、植物も生きているではないか」と反論される方が必ず出て来るのですが、それについても雅春先生は続く文章で回答を示されているのです。

 むろん、人間知恵をもって理屈をいえば、どんなにでも理屈がつきましょう。動物も生き物ならば、植物も生き物である、植物食だって、生き物を殺して食わねば生きられないように造られている、これは実にやむをえない人間の運命であるという理屈もつきましょう。

 むろん、地上のあらゆるものは、神が「霊」すなわち「生命」によって造り給うたものの映像(かげ)でありますから、鉱物でさえも厳密な意味からいえば生きている相をあらわしているのであります。一個の水素の原資も生きていて、その内部機構たる電子は常に生々の活動を続けています。また一個の元素は知性をそなえていて、自分の出会う相手の原子が酸素であるか炭素であるかを認識して、相手の相違によって、炭化水素を造ったり、酸化水素(水)を造ったり反発したり親和したりします。

 悟ってみれば宇宙の万象ことごとく生々の相を現しているのであって、厳密にいえばいずこにも死は無いのでありますが、植物はこの『創世記』にあるように神が人間および動物の食物として与えたまうたものでありますから、それはたとい生きていましても、われわれが採取して食しましても痛みを感ぜず、苦痛の形相を呈したり、悲哀涕泣したりしないで、われわれの愛の感じを裏切らないように造られているのであります

 かえって植物の果実などは、一定の時期が来れば、人間や動物の眼につくように美しき色彩を呈して、わざわざ人間や動物に発見せられ食用に供せられることによって、自己の種子をひろく撒布させて繁殖する機会を得、それをかえって楽しむかのように見えるのであります。生きている物をたべても必ずしも相手に苦痛感を与えないのは、われわれの飲む母乳であります。母乳は生きているが、飲まれる方も飲む方も助かる、植物食もそれと同様であります。ある植物は剪定といって、枝を適当に刈り込まれることによっていっそう元気となり、生活力の旺盛をうるのであります。

 かように人間が正しい知恵をもって植物を採取したり切りとったりして食用にしますと、人間自身が生命力を旺盛にしうるのみならず、植物自身の生命の生長と繁殖の助けともなる、すなわち他を生かす愛の道にかなう。神の造り給える世界は、神の命令通りを守って神の知恵によって生きてゆきますと、こういうように、互いに傷つけるのではなく、互いに生命を生かし合うようになっている調和した世界なのであります。

 それを一歩、神の命令のそとにハミ出て、神の知恵で定められた栄養分で満足せず、蛇の知恵で、動物食の方が栄養分が多いなどということを考えて、動物を殺して食うということになりますと、たちまちわれわれは愛の道に反し愛の権化であることを生命として造られている人間はその生命を失って、デブデブ太るかもしれないが、「生ける屍」となってしまうのであります。

 これは『創世記』の解釈の文脈で述べられていますが、菜食と肉食の本質的な違いを突いているのです。菜食も知恵が無いと乱獲で植物を絶滅させるのはダメですが、そうでない限りにおいては却って植物を生かすことになるのです。

 一方、肉食は動物に苦痛を与えるし、菜食以上に植物の命も奪うし、気候変動や食糧危機の原因にもなっている、そんな肉食を菜食と同一視できないのは当然のことなのです。


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