すべての「いのち」のために

日本SRGM連盟代表・日本アニマルライツ連盟理事・日本優生思想研究所研究員の日野智貴のブログです。いのちに線引きする「優生思想」に断固反対!(記事内容は所属団体の公式見解とは無関係の個人的見解です)

アニマルライツとヒューマンライツ


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 アニマルライツ、動物の権利については法哲学の分野では色々に議論がなされていますが、一般にはあまりなじみが深いものとは言えません。

 そもそも、その前提となるヒューマンライツ、人権をめぐる議論すらもまだまだ途上なのですから、それはある意味では当然のことです。とは言え、動物の権利について全く世間一般で議論がなされていないことは、美貫主義(ヴィーガニズム)について考える上でも、地球環境問題や生命倫理問題を考える上でも問題ですので、私の一応の考えを極力判りやすく記して、皆様に考える材料を提供したいと思います。

 そもそも「権利」という概念も色々な意味がありますが、人間には生まれながらにして無条件に持っている権利と、条件付きの義務を果たした者にだけ与えられる権利とがあります。

 例えば、「株主としての権利」はその会社に出資したものにだけ与えられます。労働者が給料を受け取る権利は、勤労の義務を果たした者にだけ与えられます。経営者も勤労の義務を果たさずに怠けて会社を破産させたり解任されたりした場合は、その会社に対する権利を当然に失います。

 一方、参政権は成人の日本国民にはニートであれ、労働者であれ、経営者であれ、失業者であれ、当然に与えられます。参政権は何かの義務を果たさないと与えられないような性質の権利では、ありません。

 ただし、外国人にはいくら日本国内で「勤労」「納税」を行っていても参政権は与えられません。つまり、参政権は「日本国民ならば誰にでも与えられる権利」なのです。

 また、「人間ならば誰にもでも与えられる権利」として「基本的人権」というのがあります。これがヒューマンライツです。

 なお、この「基本的人権」の思想は『フランス人権宣言』から始まりますが、この『フランス人権宣言』における「人間」とは「白人男性」のことでした。ちなみにフランスで男女同権が認められたのは昭和21年(西暦1946年、皇暦2606年、仏暦2498年)のことで、日本と同い年です。

 もっとも、日本では律令国家において既に男女同権が定められていたことは平成31年(西暦2019年、皇暦2679年、仏暦2562年)2月28日付ブログ記事 奈良時代「律令国家」が「暗黒の時代」であったという洗脳で述べました。つまり、近代国家になってから逆に女性の権利は後退したわけですが、その背景には徴兵制の問題があります。徴兵制がある限り男女平等はあり得ません。(女性からも徴兵しようとする頭のオカシイ方が日本にも某女性元防衛大臣を始め存在しますが。)

 有色人種と白人が平等の人権を持つと認識されたのは第二次世界大戦以降のことで、それでも未だに欧米では根強く人種差別が残っています。これまた徴兵制ネタになりますが、ベトナム戦争の時は何故か危険な前線には黒人が多かったそうです。

 そういう様々な紆余曲折を経て「人間ならばどんな人間でも人権はある」ということになったのです。


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 そうすると「どんな人間にでも人権はある」のならば、動物だとどうなのか?という疑問も浮かんできます。

 まず、同じ人間でも日本人と外国人とでは、権利の内容が違います。「日本人としての権利」は外国人には保障されません。

 しかし「人間としての権利」は日本人にも外国人にも平等に適用されます。

 では、仮に「動物としての権利」があると、それは人間にも人間以外の動物にも等しく適用されるべき権利である、ということになります。

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 言うまでもないことですが、我々が「人権」として認識している権利の中には

・人間だけが持っている権利

・人間を含むすべての動物が持っている権利

の、二種類があるということになります。

 これは仏教的な世界観を持っていると理解しやすいかもしれません。仏教では、人間は人間である前に「衆生」です。

 「衆生」というと「大衆」という単語を連想し「人間=衆生」と思っている方も多いかもしれませんが、仏教における「衆生」には「神様(天部)」もいれば「動物(畜生)」もいます。そして、宗派にもよりますがその全ての「衆生」に「仏性」が宿っているというのが、仏教の世界観です。

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 仏教にも上座部仏教大乗仏教とがありますが、大乗仏教においては「全ての衆生を平等に救済する」ことを目的にしているので、大乗仏教の戒律である菩薩戒には

・肉食をしてはならないし、他人に肉食をさせてもならない。(魚も含む。)

・捉えられている動物を見つけると釈放しなければならない。

・家畜の販売をしてはならない。

・動物を(ペット等として)飼育してはならない。

というような、動物の権利を尊重する規定が存在します。


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 動物の販売やペットの飼育がダメ、という仏教の「菩薩戒」ですが、そうした主張を法哲学の分野から主張している学者がいます。ラトガース大学のゲイリー・フランシオン教授です。

 フランシオン教授の主張は日本語では「廃止論」と訳されています。フランシオン教授の支持者は日本にもいて、Olivia Kingさんみたいなフランシオン教授の下で動物の権利を学んだ方が活躍されており、フランシオン教授の発言を日本語に訳してTwitter等で発信されています。

 その中に、こういう言葉がありました。

「人種差別=性欲主義=異性愛主義=階級主義=年齢主義=種差別

すべてが間違っています。 すべてが暴力的です。 私たちはそれらをすべて拒否し、平等を受け入れなければなりません。そして、動物問題に関しては、平等はヴィーガニズムを意味します。」

 白人が黒人奴隷を売買するのが悪であるように、男性が女性の体を買うことが悪であるように、人間が動物の生態販売を行うのも悪である、ということです。

 つまり、人間の持つ「人身売買されない権利」というのは「人間だけにある権利」ではなくて「人間を含む全ての動物にある権利」ということになります。

 なぜかというと、人間の身体は自分のものであって、他人のものではありません。同様に、動物も自分の身体を持っています。そして、人間同様動物の身体にも感覚神経があり、苦痛も感じます。また、動物には人間同様、自分の意思で体を動かす能力があります。

 なのに人間にだけ身体の自由があって、動物の場合はその身体を売買されても良いのはオカシイではないか、というのがフランシオン教授の立場です。当然、その観点からは動物を殺して食べる肉食は絶対にNGです。

 逆に植物については「苦痛を感じない」ため、権利の主体とはなり得ません(と、フランシオン教授は解釈しています)。動物であっても無脊椎動物には苦痛を感じないという説もあり、その立場から無脊椎動物にはアニマルライツを認めない立場の人もいます。

 ただし、これについては私にはあまりにも杓子定規な(極端すぎる)解釈であるように感じます。

 「苦痛を与える=悪」というほど、世の中の倫理は単純ではないでしょう。賭博や買売春も当事者が苦痛を感じなければ「正義」であって「悪ではない」のでしょうか?そんなバカなことはありますまい。

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 私はやはり「生命」に絶対の価値を置くことから議論を始めなければならない、と思っています。

 生物にはこの世界で生きていくための使命があり、それは「苦痛を感じない生き方」という消極的なものではなく、「より幸福を感じる生き方」という積極的なものであるはずです。動物の場合は、その手段として「自由意思による行動」があるのであり、その動物の自由を不当に奪うことは「悪いこと」なのです。

 植物の場合は、自由に生きることがその生態に含まれていません。むしろ「種族としての繁栄」がその生の目的であるようです。だから植物を踏みつけるだけでは「悪いこと」とは言えませんが、特定の植物を乱獲して絶滅させるとそれは「悪いこと」です。

 人間の場合は他の動物よりも「社会生活」に重視を置くようになっています。だから「社会生活を送るために必要な権利」が「動物としての権利」の上にさらに与えられているのです。それは「社会生活を送れないと苦痛だから」ではなく「社会生活を送るのが人間としての生命を活かすことだから」と考えるべきではないでしょうか?

 だからこそ、人間の社会生活に有害な影響を与える賭博や買売春、麻薬は本人が主観的に苦痛を感じていなくとも規制されている、又は規制されようとしているのです。

 アニマルライツについても同様の「生命尊重」の視点から検討されるべきであると考えます。


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