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日本SRGM連盟代表・日本アニマルライツ連盟理事・日本優生思想研究所研究員の日野智貴のブログです。いのちに線引きする「優生思想」に断固反対!(記事内容は所属団体の公式見解とは無関係の個人的見解です)

「古人大兄皇子」は「舒明天皇の子供」ではない!

 


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 大化の改新前後の「大和大王家」(皇室、註一)については、色々な謎がありますが、そのカギとなるのが天智天皇の異母兄とされる「古人大兄皇子」です。
 まず、天智天皇は「中大兄皇子」と呼ばれていました。つまり、この二人は「大兄」の部分が共通しています。
 しかし、歴史上「大兄」がつくのは全て「天皇候補」です。(多元史観の立場から言うと、正確には「天皇」ではなく「大王」ですが。)
 例えば、「皇極紀」では蘇我入鹿が「山背大兄王を廃して、古人大兄皇子を天皇にしよう」という場面があります。ここでは、山背「大兄」王と古人「大兄」皇子の二人が、共に「天皇候補」とされているのです。
 では「中大兄皇子」とはどういう意味なのか。古田武彦先生は「中兄ちゃん」と言う意味で、関西では男の子の兄弟が多い場合は次男を「中兄ちゃん」ということがある、と言う意味のことを述べられています。
 それだと、中大兄皇子は古人大兄皇子よりも「格下」と、なります。が、「舒明紀」末尾にはこうあります。

(舒明十三年十月十八日、舒明天皇の殯)是の時に、東宮開別皇子、年十六にして誄したまふ。

 ここでいう「開別皇子」は天智天皇中大兄皇子)の別名ですので、中大兄皇子舒明天皇の「東宮」(後継者)であったことになります。
 それならば、どうして古人大兄皇子は「東宮」ではなかったのでしょうか?
 一応、中大兄皇子の母親は皇極天皇(宝皇女、舒明天皇の未亡人)なのに対して、古人大兄皇子の母親は蘇我氏の娘、つまり臣民出身だった、ということは出来ます。母親の身分が低いから東宮になれなかった、ということです。
 ですが、それならば、どうして皇極天皇の時代に時の天皇の息子を差し置いて、山背大兄王と共に「天皇候補」となっているのでしょうか?
 山背大兄王聖徳太子の子供ですから、彼が「天皇候補」であることは、判ります。しかし、彼と皇位を争うのは「東宮」であり、しかも時の天皇の息子である中大兄皇子のはずで、蘇我入鹿が「古人大兄皇子を天皇にしたいから、山背大兄王を何とかしないと」と考えるのはオカシイ、むしろ中大兄皇子の方が古人大兄皇子を天皇にする際の障壁なはずです。

 こういうことから、古人大兄皇子は中大兄皇子の「身分の低い異母兄」などではなくて、中大兄皇子を凌ぐ「次期天皇候補」だったと考えられます。そうすると、中大兄皇子の異母兄と言う設定が怪しくなります。
 さて、ここから九州王朝説の立場からの疑問も出します。これは九州王朝説論者の間では従来から議論になっているところです。
 第一に、九州王朝説では白村江の戦で活躍した「朴市秦田来津」は九州王朝の武官です。(白村江の戦いを戦ったのが九州王朝だというのが、九州王朝説の重要な論点の一つです。)
 が、その田来津は『日本書紀』によると元々「古人大兄皇子の側近」です。
 第二に、これは九州王朝説論者の間でも合意は得られていませんが、天智天皇の妃で古人大兄皇子の娘とされる「倭姫王」は「倭国(=九州王朝)の姫王」ではないか、という説があります。
 もしも「倭=大和」と言う意味だと、ほとんどすべての皇女・女王が「倭姫」になってしまいますから、私のこの仮説の成立つ可能性は高いと考えます。
 前段で述べたように、古人大兄皇子を定説通り「舒明天皇の子供」とすると、問題が出てきます。そして、上記二点の内容は「古人大兄皇子の娘と部下は九州王朝関係者」であることを示唆します。
 これらのことを総合すると、古人大兄皇子は「舒明天皇の子供ではなく、九州王朝の皇子であった」ということになります(註二)。

 それだと、乙巳の変蘇我入鹿を殺した時の中大兄皇子のセリフもしっくりきます。

(皇極紀、乙巳の変の場面)中大兄、地に伏して奉して曰さく、「鞍作(=蘇我入鹿)、天宗を尽し滅して、日位を傾けむとす。豈天孫を以て鞍作に代へむや」とまうす。

 「天宗」つまり「天皇の宗室」(皇室)を蘇我入鹿は亡ぼそうとしているから殺したのだ、と暗殺の理由を中大兄皇子は弁明しています。
 蘇我入鹿が古人大兄皇子を天皇にしようとしたことが、中大兄皇子からすると「天宗を尽し滅して、日位を傾けむとす」することなのです。このことは、中大兄皇子にとって古人大兄皇子は決して「天皇家」(註一)の一員ではなかったことを、示していると考えられます。

(註一)「天皇家」という名称は不敬の誹りを免れ得ないため、あまり用いたくない。
ただ「皇室」が制度化されたのは律令国家成立以降である。皇室を「王家」「皇家」と記した記録は存在するため、歴史学上の議論の際には「」付きで「天皇家」「大和大王家」等と記すこともある点、ご了承いただきたい。

(註二)なお、古人大兄皇子の母親が「蘇我氏の娘」であり、父親が「九州王朝の天皇」と言う可能性も、十分に存在する。
当時の九州王朝は「前期難波宮」を「副都」として建設したり、四天王寺を建立したりしていた、というのが古田学派の見解であり、私も基本的にその立場に立つ。
つまり「九州王朝」と便宜上は呼称しているが、近畿地方と関係が深かったのである。


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