すべての「いのち」のために

日本SRGM連盟代表・日本アニマルライツ連盟理事・日本優生思想研究所研究員の日野智貴のブログです。いのちに線引きする「優生思想」に断固反対!(記事内容は所属団体の公式見解とは無関係の個人的見解です)

井内誠司への返信――『史学雑誌』に掲載されても「学術書ではない」のか?

井内氏のブログにコメントを行うと、ブログ記事の形で返事をしてくださったので、私もブログ記事の形で反論を行うこととさせていただいた。

井内氏は、「学術出版社であるミネルヴァ書房「古田史学」を普及させようとしていること」を問題とされており、そのうえで、「「古田史学」普及の弊害を克服するための具体的手段が提示されない」ため、ネット署名をはじめられた。

私が気になったのは、井内氏が斉藤光政氏や原田実氏の著作のみを根拠に、そう判断されているのではないか、ということであるが、一応、井内氏は古田氏の著作もある程度は呼ばれたうえで、判断されているそうであり、そのことについては、私が批評を加えるべきことではないのは、言うまでもない。

しかし、私は、以下の書店を理由に、井内氏のネット署名活動を批判している。

①古田説は、「邪馬壹国」「多元的古代の成立」以下、『史学雑誌』等に掲載されたものもあり、好太王碑研究のように、定説派からも一定の評価を受けているものもあるにもかかわらず、「学術出版社に載せるべきではない」というのは、不可解である。

②古田説が「排外主義に結びつく『可能性がある』」としか、述べられていない。

③「表現の自由」に対して、「この「キャンペーン」憲法21条の「表現の自由」を明確に侵害すると判明した場合」は中止する、としているが、これは明らかに、井内氏が自分で憲法解釈を行わずに、このキャンペーンを行っているということであり、立憲原理主義の立場より、到底受け入れることができない。

 

最後の「③」について、補足・説明させていただく。

井内氏の憲法解釈で、「これは憲法違反ではない!」という結論に達したのであれば、「憲法論議についても、色々ご意見を頂いているのだが、つまり、この「キャンペーン」が明確な「憲法違反」とされた場合には、中止する。」という必要はない。

そもそも、憲法解釈とは、周囲の状況によって変化するという性格のものでは、無い。

なぜなら、憲法解釈とは、「正しい解釈」と「間違った解釈」の二者一択しか存在しなければならない

ここは、多くの方が間違えている問題なので、強調させていただく。

例えば、新ファシスト安倍晋三は、「集団的自衛権行使を認めるよう、憲法解釈を変更する」としているが、その理由は「日本を取り巻く安全保障環境が変わったから」としている。これが解釈変更の理由になっていない事、言うまでもない

憲法の解釈の問題に、政治的・物理的な問題は、一切反映されてはならない。

仮に、憲法解釈の結果、「これが表現の自由の侵害に当たらない」というのが、「正しい」のであれば、それを貫けばよい。裁判所が何と言おうが、「私の憲法解釈が正しいのであって、間違っているのは裁判所の方である」といえば、良いのである。

逆に言うと、それだけの確信がなければ、『日本国憲法』の解説書を読んで、どの説が一番妥当であるかを考え、その妥当な説であれば、自分の行為は認められるのか、等々を調べなくてはならない。

例えば、私は『日本国憲法第九条に関する様々な学説を精査した結果、佐藤幸治氏の解釈が正しいと判断した。

第21条の解釈については私は詳しくはないが、恐らくは、井内氏の方が詳しいのではないであろうか?

にもかかわらず、「明確な「憲法違反」とされ」る恐れがあるかのような発言をされることは、不用意であり、そこまで確信を得ていない段階でこのようなキャンペーンを行ったことは、明らかに矛盾しています。

 

最後に、古田説が「学術雑誌に載せるべきではない」という一方で、具体的な古田説批判をしていないところに、問題を感じます。

井内氏も、日本史に造詣のある方だと思いますので、少なくとも、古田説の学術論文にまとめられている内容については、その是非を論じるべきではないでしょうか?