すべての「いのち」のために

日本SRGM連盟代表・日本アニマルライツ連盟理事・日本優生思想研究所研究員の日野智貴のブログです。いのちに線引きする「優生思想」に断固反対!(記事内容は所属団体の公式見解とは無関係の個人的見解です)

「額田王」は「ぬかたのひめぎみ」ではないか


人気ブログランキングへ

 昔から気になっていたことがあった。

 『万葉集』において「王」に「おおきみ」とのフリガナを振る慣例である。

 古田武彦先生も生前この問題を指摘されていたが、古田先生の解釈もやはり腑に落ちない。

 『万葉集』では「おほきみ」という訓みが「大王」「大君」「皇」「王」という単語に振られているが、『古事記』や『日本書紀』の例と比べると変だ。

 『古事記』や『日本書紀』には「王」と書いて「おほきみ」と訓むことはないし、後代のフリガナを振っている写本にもそのような例はないはずだ。

 『万葉集』の訓みは江戸時代以降の研究で解読されたものである。つまり、かなり後世の研究者が「王」を「おおきみ」と発音したことになる訳だが、如何にも不自然である。

 『古事記』で「○○王」とあれば「○○のみこ」と訓むのに、どうして『万葉集』の「額田王」は「ぬかたのおほきみ」なのか。

 また「皇」の字も本来「すめろぎ」と訓むのが自然だ。「おおきみ」では、オカシイ。

 この『万葉集』だけ「独自の訓み」をしている、というのが怪しいのだ。

 大学図書館に活字版の『延喜式祝詞』があった。そこで「中臣祭文」所謂「大祓祝詞」を見て見ると、最初にこうある。

「集はり侍る親王 諸王 諸臣 百官人等 諸聞食へよと宣ふ」

 そして「諸臣」の部分に「まへつきみ」との「訓み」が与えられているのだが、私が大学図書館にあった他の本も参照して、写真版の祝詞の写本も見て見ると「まへつきみ」と振り仮名を振っている写本はなかった。

 当たり前である。この「まへつきみ」の訓みは『日本書紀』の「誤読」によって生じた訓みであること、古田武彦先生が『盗まれた神話』で論証されていた通りだ。

 祝詞の写本を全て調べることは学生の私には無理だが、恐らく「諸臣」に「まへつきみ」と振られた古写本はないはずだ。とは言え念のため、もしも私の調査不足であれば教えてほしい。


人気ブログランキングへ

 少なくとも現時点では「群臣」=「まへつきみ」というのは、『日本書紀』の解釈からしか出てこない訓みであり、そしてそれはおそらくマチガイであろう、と言う風に私は結論付けている。

 話を『万葉集』に戻すと、この「王」=「おほきみ」というのも『万葉集』の解釈からしか出てこない訓みなのだ。なんとも「怪しい」感じがする。

 先述の通り、この問題を最初に突っ込んだのが故・古田先生である。

 古田先生は「皇」は「すめろぎ」、「大王」は「おほきみ」、「王」は「きみ」と「文字通り、解釈すべき」と主張した。

 だが、それにも腑に落ちないのだ。

 「王」=「きみ」だと明らかに「音節数がオカシイ」和歌が沢山ある。

 無論、『万葉集』の和歌の全てが綺麗な「五七調」という訳ではないが、それでも腑に落ちないのだ。

 そこでヒントになったのが額田王を「額田姫王」と書いている例である(『日本書紀』『薬師寺縁起』等)。これは「ぬかたのひめぎみ」と訓むのが自然な気がする。

 ところで、同一人物であるならば訓みも同一なのが自然だ。無論、「別名表記」であれば別であるが、「額田王」と「額田姫王」を「別名である」と判断すべき根拠もない。

 例えば「足仲彦」と「帯中日子」はどちらも「たらしなかつひこ」と訓む。「いや、前者は『たりしなかつこ』で後者は『たらしなかつくさこ』かも知れぬ」等という人はいない。(ちなみに、これは 仲哀天皇陛下の話をしています。)

 すると「額田王」と「額田姫王」も同じ「ぬかたのひめぎみ」と訓むべきではないのか。

 そうすると「王」には「きみ」や「みこ」だけでなく、「ひめぎみ」や「みこぎみ」(又は「ひこぎみ」)と訓む例もある、ということになる。

 ならば『万葉集』の和歌も五七調を崩さずに解釈できるようになる。

 『古事記』では皇族に男女を問わず「王」の敬称を用いているが、『古事記』の伝承も元々は口伝である。『古事記』序文を読む限り 天武天皇の頃には文字化された記録もあるはずだが、まさか 神武天皇陛下以降の全ての記録が文字化されていたわけではあるまい。

 『日本書紀』では「王」が「皇子」「皇女」と使い分けられているのだから、男女の区別がつく形で口伝されていたはずなのである。記録文書に「王」とだけ書いていると性別が判らないからだ。

 元々、「王」には性別によって「ひこぎみ」「ひめぎみ」の二通りの音があった可能性は充分にあるのではないだろうか。


人気ブログランキングへ