すべての「いのち」のために

日本SRGM連盟代表・日本アニマルライツ連盟理事・日本優生思想研究所研究員の日野智貴のブログです。いのちに線引きする「優生思想」に断固反対!(記事内容は所属団体の公式見解とは無関係の個人的見解です)

「同性婚と近親婚は違う!」という主張の何が問題なのか

 同性婚を巡る議論では「そもそも話が噛みあっていないな」と感じることが、何度かありました。例えば、西暦2013年のニュージーランド同性婚を認める『婚姻平等法』が成立した際、賛成側のモーリス・ウィリアムソン議員は次のように演説ました。

「今、私たちがやろうとしていることは『愛し合う二人の結婚を認めよう』。ただそれだけです。」

「お金のためでもない。単に、『愛し合う二人が結婚できるようにする』この法案の、どこが間違っているのか。だから、本当に理解できないんです。なんでこの法案に反対するのかが。」

 しかし、ウィリアムソン議員は肝心なことを忘れてしまっています。

 同性婚反対派はそもそも「愛し合っている」という理由だけで婚姻を認める、ということ自体に反対しているのです。

 現にいくら愛し合っていても近親婚は認められません。こういうと必ず「同性婚と近親婚は違う!」という人が出てくるのですが、ならば「『愛し合う二人の結婚を認めよう』。ただそれだけです。」という言葉は嘘だったのでしょうか?

 そうです。同性婚賛成派も「ただそれだけ」の主張をしている訳では、無いはずです。

 なのに「ただそれだけです」と言い切ってしまうから、問題が生じるのです。

 

近親婚が認められない理由は何か

 

 世の中には「同性婚には賛成だが、近親婚には反対」という方がいます。

 その方に「どうして『愛し合っている』のは同じなのに、同性婚と近親婚は違うの?」と聞くと次のような返答が返ってきました。

「近親婚だと奇形児が多いから。」

 この主張には、二つの大きな誤謬があります。

 第一に「奇形児は生まれてきてはダメ!」と言うのは、優生思想に基づく考えです。

 「同性愛者への差別には反対だが、優生思想に基づく差別には賛成」ということなのでしょうか?

 事実、最高裁判例では近親婚が認められない理由を「社会倫理的配慮及び優生学的配慮」であるとしており「合理性がある」となっています(平成19年3月8日「遺族厚生年金不支給処分取消請求事件」最高裁第一小法廷)。

 平成になっても最高裁が優生思想に「合理性がある」と言っているのは大問題ですが、ただ、ここで最高裁は「社会倫理的配慮」も上げていることには注意する必要があります。優生思想が否定されても判例が覆らないように、判決文は巧みに工夫されています。

 第二に、仮に「近親相姦だと奇形児が生まれるから、ダメ」と言うのであれば、禁止するべきは近親婚ではなく近親相姦のはずです。

 これは最高裁判例についてもいえることですが、そんなに優生思想を肯定するのであれば、どうして近親相姦は禁止されていないのでしょうか?

 いうまでもなく、多くの国民は優生思想に反対ですし、法律によって国民の性的自由を過度に縛るのは良くないから、近親相姦を禁止する法律はない訳です。

 しかしながら「セックスはしても良いけど、結婚はしたらダメ」と言うのは、変な話です。

 もっとも、このことがオカシイと思っている国民は少ないのかもしれません。

 我が国では結婚年齢が18歳である一方、性的同意年齢は13歳だからです。「中学生とセックスするのは良いけれども、結婚はしたらダメ」という、私からすると支離滅裂に見える法律があるわけですが、それへの反対運動は何故か盛り上がっていません。

 いずれにせよ、優生思想を根拠に近親婚と同性婚を分けるのは変な話であり、私は支持できません。

 

そもそも「婚姻」の定義が定まっていないことが問題

 

 そうすると、近親婚禁止の理由として注目されるのが「社会倫理的配慮」ということになります。

 この「社会倫理的配慮」と言うのも良く判りません。

 世間一般では「近親間で性行為をするのは別にいいけど、結婚だけはしたらダメ!」というような「社会倫理」が確立していたのでしょうか?そんな話、寡聞にして私は知らないですが。

 いずれにせよ、最高判例に基づくならば結婚は「愛し合っている」だけではダメで「社会倫理」とやらに配慮しなければならない、ということになってしまいます。

 同性婚で言うと、これまで同性婚が認められていなかった理由は「社会倫理」とやらが認めていなかったからであり、世論が変わって「社会倫理」が変われば同性婚も認められる、さらには遠い将来に同性婚を認めないという「社会倫理」になれば再び同性婚禁止が可能になる、ということになります。

 一体全体、その「社会倫理」とやらは何者なのか、何がそんなに偉いのかは判りませんけれども、最高裁判例が変更されない限り、私たちは「社会倫理」様に配慮した結婚しかしてはならぬ、ということです。

 どうしてこんなことになるのか。それは「婚姻」の定義が法律で定まっていないことが原因です。

 

結婚は何のためにするのか

 

 仮に「社会倫理」に従った婚姻しかしてはならないのだと「夫婦には性行為の義務がある」等という、ロマンティック・アセクシャルの婚姻を禁止するのか、とツッコみたくなる判例があるのも判ります。

 世間一般では「夫婦がセックスをするのは当たり前」という「社会倫理」とやらがあるからこそ、夫婦に性行為の義務がある、ということになるのでしょう。

 しかしながら、私たちは「社会倫理」のために婚姻をするのでしょうか?

 そんなことはありません。無論、夫婦というと社会的にも特別扱いを受けることはありますから、結婚に公の要素が皆無ということはありませんが、結婚の理由の多くはもっとプライベートなものであるはずです。

 とは言っても、今の法律では「婚姻とは?」ということが明確になっていません。婚姻の目的は人によって違う訳です。

 私はそれこそが混乱の原因であると考えています。

 本来、婚姻とは「家族になる行為」の一つです。ところが、戦後GHQ占領政策によって家制度が廃止されてしまい、「家族とは何か?」の定義が曖昧になってしまいました。結果、婚姻制度についても曖昧なまま今に至ります。

 現行の戸籍制度は、家制度復活派と家制度廃止派との妥協の産物であり、ハッキリ言って「帯に短し襷に長し」と言う状態です。

 家制度復活派にとっては「結婚=入籍」ですが、今の婚姻制度では原則として「入籍」は出来ません。

 一方、家制度廃止派にとってそもそも戸籍制度は面倒なだけです。今の時代、多くの手続きでは身分証明に戸籍ではなく住民票を用いますし、事実婚と戸籍婚の差異も減りつつあります。

 同性婚や近親婚について考える前に、この問題について決着をつける必要があります。

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