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日本SRGM連盟代表・日本アニマルライツ連盟理事・日本優生思想研究所研究員の日野智貴のブログです。いのちに線引きする「優生思想」に断固反対!(記事内容は所属団体の公式見解とは無関係の個人的見解です)

『日本国憲法』有効論に対する反駁(1)


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アメーバで「日本国憲法の無効論??(1)」「日本国憲法の無効論(2)」というブログ記事があり、作者の「鈴木」氏は私の文章も、読んでくださっているので、ここで反論させていただくことにした。というのも、鈴木氏は私の立場を誤解されているのではないか、とも思われたので、誤解を解くとともに、私がなぜ、(一般にリベラル政党と言われる生活の党の支持者であるにもかかわらず)「憲法無効論」を唱えるのかを、ほかの方にも説明させていただきたいからである。

と、かなり前から文章に書こうと思っていたのであるが、高校の課題優先でやっているうちに、今日に至ったので、少し急いでまとめている状態である。


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憲法改正に限界はない

まず、鈴木氏は、こう述べる。

なぜ無効なのか、彼らの論を説明します。そもそも日本国憲法は「大日本帝国憲法」を改正することで誕生しました。無効論の多くはここに問題があると指摘します。故に無効なのです。論拠が弱いものから書いていきますね。

大日本帝国憲法75条>
憲法皇室典範摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルヲ得ス

憲法改正時、摂政は置かれていませんでした。それで、これの何が問題になるかというと、摂政は置く間とは「天皇陛下のご意思が反映されないとき」です。ご病気とか何か理由があるわけです。その摂政を置くときにもダメなんだから、GHQが日本を占領しているときに憲法改正なんて、言うまでもなくダメだと、無効論者は言います。

こういうものを類推律と言います。類推自体は真っ当ですよね。しかし、こういう類推律は厳格性を無視して双方の間を取ろうとする「民事訴訟」では使われても、その他では使われません。憲法解釈を民事訴訟レベルで行うなんて、刑事訴訟でも用いられていないのに、ましてや憲法に…と類推律的に批判することが可能です。

この、『大日本帝国憲法』七十五条が、憲法無効の根拠たり得ないことは、鈴木氏の仰るとおりである。

他にもさまざまな「無効の論拠」を「弱いもの」からあげて、最後が、第七十三条であるが、これについて、鈴木氏はこう記している。

大日本帝国憲法73条>
将来此ノ憲法条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
(以下、省略)

興味を持ってからたった2日ですが、私が聞いた中ではこの議論がもっとも正当です。大日本帝国憲法では「条項」の改正は出来ても、名称や全文を変えることは出来ない...という主張です。なお、これを教えてくれたのは高校1年生の子です。勉強熱心な高校生もいるのだな、と。

これはその通りなんです。ちょっと反論はできませんね。ですから、改正の手続きに瑕疵があったことは認めざるを得ません。

問題は「改正の手続きに瑕疵がある=無効を宣言できる」であるか否かです。私が最初に「無効論に反対」と書いたのは、つまり「瑕疵があったとはいえ、それが無効を宣言できる論拠にはならない」と思っているからです。

 そして、続きで、

日本国憲法無効論というのは、そもそも「憲法有限改正論」というものに依拠しています。これは「憲法無限改正論」=「憲法でもいくら改正してもよい」の反対ですから、「憲法有限改正論」=「変えてはいけないものがある」という意見です。」

と、述べられている。

つまり、鈴木氏は、「憲法無効論憲法改正限界説」を「前提」としている。

ここが、「誤解」である。

私は、憲法改正に限界が存在するとは考えない。

理由は、私が「立憲原理主義」に立つからである。(「立憲原理主義」自体は私の造語)

憲法は国の最高法規であり、不文律に縛られてはならない。形式が第一である、というのが私の考えである。*1

なぜなら、「不文律」に基づく「憲法改正の限界」なるものを持ち出すと、「不文律」の内容は万人に明白であると言えないのでそれに基づく憲法無効論は権力者がそれを悪用する余地がある。(=「法の支配」が守られない)*2


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憲法改正制限条項」について

憲法学の定説では、「憲法改正限界説」が主流であるが、例えば、その根拠は、「根本規範の変更は革命である」とか、『日本国憲法』の前文に将来の憲法改正を制限する内容がある、といったものである。

これらが正しいかはともかく、私の管見が及ぶ範囲では、2005年に貴族院制を廃止する憲法改正が無効になった例がカンボジアであった、と聞いているほか、近年も、「アラブの春」の際に、エジプトで施行された新憲法が無効ではないか、との論争があったという風に聞いている。*3

フランスやデンマーク憲法では、憲法改正を明文的に制限する条項があるそうであるが、これを「憲法改正制限条項」というそうである。

この問題について精査するために、私は学校図書館や市立図書館憲法に関する本をできる限り読んでみたが、この「憲法改正制限条項」自体を改正した場合、それは「根本規範の侵害=革命」とみなされる恐れのあるものの、「二段階の改正」という手続きを経ることにより、「憲法改正の制限」を超えることは可能なはずである。

でないと、「憲法改正権力」(≠「憲法制定権力」)*4を「非合法的手段」によって束縛することになる。*5

つまり、『大日本帝国憲法』第73条「将来此ノ憲法条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」を、一度「将来此ノ憲法ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」に変えてから、今の『日本国憲法』を制定しておけば、何ら問題はなかったのである。

その手続きを踏まずして――どうしても『日本国憲法』に改正したければ、二段階改正ぐらいの労は踏むべきであったのだ――現憲法を制定したのであるから、それが無効であることは当然なのである。*6

それでは、次に、「真正護憲論」について、証明する。


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*1:この点については、私は南出先生とは異なる。しかし、その他の部分では、私は南出先生の真正護憲論に近い立場である。

*2:明文化されていない「不文律」が、成文法よりも優先されるとすると、文章化されていない「神様のお告げ」が、聖典よりも優先されるどこかのカルトと同じである。それが少し危なくなると、個人崇拝の教団になってしまう。「法の下の平等」は「神の下の平等」を背景にした思想であると聞いたことがあるが、多くの伝統宗教が「聖典」を持っているからこそ教義を伝えられるのと同様に、国家も「成文法」を持っているからこそ、国民に法を守らせることができるはずである。(法を知らない国民が、法を守るのは不可能である→法としての実効力を有しない)

*3:私の知識が足りず、裏付けとなる資料を入手できなかった。もしも間違っていれば、出典とともに、指摘していただきたい。

*4:憲法制定権力が、憲法制定後も権力を有するのは、法治主義に反する。

*5:ここで「不文法」を持ち出す者の意見には与しない。慣習は破られるためにある、というと言いすぎであるが、状況の変化に対応できない不文法は破棄するのが、政治の役割であろう

*6:日本国憲法』が『大日本手国憲法』の改正手続きの形式通りに制定されたのなら、それは「有効」である。