すべての「いのち」のために

日本SRGM連盟代表・日本アニマルライツ連盟理事・日本優生思想研究所研究員の日野智貴のブログです。いのちに線引きする「優生思想」に断固反対!(記事内容は所属団体の公式見解とは無関係の個人的見解です)

現世利益の信仰を超えて


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 よく「インド人は信仰熱心な人たちである」という方がいます。一方では「インド人は信用できない」という人もいます。

 私は三ヶ月ほどインドで修行してきた人間ですが、その間、私は信仰熱心なインド人も見てきましたし、ぼったくりをするインド人も見てきました。信仰熱心な方が盗人である、と言う話も現地で聞いたことがあります。

 こういうインド人の二面性を「貧困のせい」とか「途上国だから」等というのは簡単でしょう。しかし、やはりインド人の信仰生活のバックボーンにあるヒンドゥー教が現世利益の宗教である、というのは忘れてはならない視点だと思います。

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ヒンドゥー教の寺院のある湖の舟で
ヒンドゥー教寺院は現世利益信仰が目的であり、また不用意な参拝はカースト制度容認といった間違った政治的メッセージを発する恐れもあるので、私は見学はしても参拝はしない)

 例えば、インドではよくガネーシャを拝む人がいます。ガネーシャの祭りは盛大に行われています。

 ガネーシャは実は日本でも比較的知られている神様です。かつて「夢をかなえるゾウ」というドラマに出てきましたし、昔から聖天様という神様として知られていました。

 兵庫県西宮市にある真言宗寺院の聖天寺の公式HPには聖天様のことを「現世利益のチャンピオン」と記されています。そして「お聖天さまは秘仏中の秘仏とされ、皆様の目に触れることを許されていない」とも記されています。

 そう、日本では聖天様はどんな願いでも叶えてくれる神様でありながら、気軽に祀ったり、見たり、するのはいけない存在である、とされているのです。だから「現世利益のチャンピオン」でありながら、知らない方も少なくありません。

 というよりも、現世利益を求めるのは本当の信仰ではないのです。今月、私の所属する光明思想団体の機関誌に掲載された谷口雅宣先生の次の文章は、まさに的を射ています。

 私たちが、不安から逃れたくなり、また願いごとをしたくなるのは、こんな精神状態のときだろう。そんな時、どこかの神社か寺院に出かけていって、神仏の前で願いごとを述べたり、お札やお守りを買って来て、自分の近くに置いておくか、人によっては、肌身離さずもっていたいと思う。そうすることで、神と私との間の距離が縮まり、「神の護り」が得られるような気がするのである。

 しかし、このような信仰は、「我は神の子なり」の信仰とは言えないのである。「神」というものが、空間的に「私」とはどこか別のところに存在していると感じているし、「私以外のもの」とも、神は別だと感じている。聖歌『実相を観ずる歌』にもある通り、「神はすべてのすべて」なのだから、「私」の中にも神はいまし、「私以外のもの」もすべて神に包摂されている、というのが正しい理解であり、正しい信仰である。そのような信仰を得るためには、「私」は自分の肉体の中に閉じこもっているというような物質的な認識を超える必要がある。そして、「私以外のもの」のすべてに「私」がいる、との自覚に近づく。すると、論理的にも感覚的にも「私以外のもの」は消えてしまうから、「私」は神に包摂され、「神と一体である」との自覚に達するのだ。(谷口雅宣「神の護り」より)

 ヒンドゥー教の最大の問題は、それが専ら現世利益の多神教である、ということでしょう。無論、そうでない教派も存在するのですが、カースト制度や動物をいけにえにする供養を始めとするヒンドゥー社会の悪習の根拠となっている『マヌ法典』等の信仰は、現世利益を求める民衆感情と密接に結び付いています。

 日本でも宗教が衰退している最大の原因は、「宗教=現世利益」という意識にあると思います。どんな宗教でも一見「奇跡」に見えるような御利益はあるのですが、それを過度に重視してカルト的な信仰に嵌る人、逆に「○○を拝むと幸福になる」といったイカガワシイ現世利益に嫌気がさして宗教が嫌いになった人、こう言った人は少なくないはずです。

 そうでなくとも、現世利益のためだけに神社仏閣に参拝し、日常生活では無宗教な日本人は、少なくないどころかむしろ「多数派」かも、知れません。正月の初詣だけ神社に来て「今年一年、幸せにして下さい」といい、あとは神社に全く関心を持たない人は、このブログの読者の中にもいるはずです。

 「すべては一体である」ということが判ればそう言った現世利益信仰が無意味であることが理解できるのですが、それを本当に理解することはなかなか難しいのも事実です。


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