「承久の乱」という日本史のターニングポイント――腐敗した「王朝国家」の自壊
日本の歴史において「承久の乱」というのは、実は思想的にはとても大きな事件でした。
後に日蓮聖人はこの戦いを「先代未聞の下剋上」と評しています。日蓮聖人が鎌倉幕府に対して対立的な姿勢を採ったのも、根本的にはこれが原因です。
そして、いわゆる「幕府」の時代が確立したのも、この承久の乱がきっかけなのです。
さて、承久の乱について触れる前に当時の日本の体制である「王朝国家」について触れたいと思います。
「王朝国家」とは、簡単に言うと「律令国家」が腐敗した結果、誕生した体制です。
律令国家については平成31年(西暦2019年、皇暦2679年、仏暦2562年)2月28日付ブログ記事 奈良時代「律令国家」が「暗黒の時代」であったという洗脳で述べました。
その要点をまとめると、
・基本的に国民はみんな平等。衣食住は政府が支給。
・奴隷制度も段階的廃止。男女間の格差もほぼ無し。
と、いうような体制です。
そんな律令国家を崩した「大物政治家」がいました。それが藤原仲麻呂という人です。
彼はこう主張ました。
「今の律令国家では、一生懸命働いても働かなくても、支給される土地は同じだけだぞ?それって、不平等じゃないか?」
それを聞いた当時の農民たち、特に政府による中央集権的な支配に不満を持っていた層は「その通りだ!」と思います。
さらに、仲麻呂はこうも言います。
「自分が新しく開墾した土地であっても、死んだら(既にある用水路等を利用している限り)政府に返して、その後は赤の他人に支給されるかもしれないんだぞ?それでいいのか?自分の子孫に土地を遺したくはないのか?」
それを聴くと、働き者の農民ほど「仲麻呂の言う通りだ!」と考えます。さらに仲麻呂は租の税率を3%から2.5%に下げるなどの減税政策も主張し「農民の味方」であるかのように振舞います。
いつの時代もですが、過剰に「庶民の味方」をアピールする政治家には裏があります。その典型が藤原仲麻呂でした。
彼は民部卿(今の総務大臣)に就任すると『墾田永年私財法』という法律の制定を主導します。この法律の内容は
「新しく開墾した土地は、永久に自分の財産にして良い!無論、子孫に相続させるのもよろしい!」
という法律です。これによって私有財産拡大への道が広がりました。
こうした藤原仲麻呂の政策は今でいうと「所得税・相続税の減税」「規制緩和の推進」に該当します。こういう政策を推進すると経済は確かに発展しますが、一方では格差が拡大し「国民は全員平等」という律令国家の建前が危うくなります。
しかし、それだけだと問題はありませんでした。律令国家が正常に機能していると、国民の最低限の生活は保障されるからです。
実は藤原仲麻呂は『墾田永年私財法』に重要な「但し書き」をしていました。その内容を簡単に説明すると
「ただし、、所有できる土地の広さについては身分によって制限がある!」
というもので、事実上、貴族だけが広大な土地を独占できるようにしていたのです。
「規制緩和の推進」によって「国家戦略特区」を指定すると、何故か総理のお友達の学園だけが「指定」された、という話もありましたが、いつの時代にも腐敗した政治家のやることは一緒です。こんなことをしても経済発展にはなりません。
さらに、藤原仲麻呂は庶民の最低限の生活を崩す政策までも推進しました。それが「公廨稲(くげとう)」の制度の創設です。
まず、大前提として今と違い貨幣経済の発達していない古代においては、銀行は存在しません。なので、お金(お米や現物を含む)が無いときは主に政府から(直接的には地方の役所から)借りていました。これを「出挙」と言います。
正確には「出挙」には「私出挙」といって、今でいう民間の金融業者も存在したのですが、こちらは税率も高いので「公出挙」(役所の行う出挙)を人々は利用していました。
日本でも一昔前までは郵便局が郵便貯金を集め、これを貸し出してその利息を政府機関の収益にする「財政投融資」ということをしていました。また、年金の積立金を株式に投資することを始めとする「官製ファンド」も存在します。
今の時代は奈良時代ではないので「財政投融資」や「官製ファンド」が必要かどうかは議論の余地がありますが、奈良時代には銀行も何もなかった時代ですから、「出挙」の制度は確かに必要でした。そして、出挙の利息が役所の財源になっていたのです。
当初は出挙の利息は「公共事業」の財源となっていました。有名なのは「駅の整備」です。ここでいう「駅」は鉄道の役ではなく乗馬用の馬の休憩所ですが、今でいう鉄道整備と意義は一緒でしょう。
ところが、藤原仲麻呂が導入した「公廨稲」は「出挙の利息を国司の役人(今でいう地方公務員)の給料にする」という制度です。
ということは、国司の役人からすると
「そうか!庶民にたくさん出挙を貸し付けて、たっぷりと利息を搾り取ったら給料が増えるのか!」
ということになります。事実、この制度により国司が農民に出挙を貸し付けまくった結果、農民は窮乏化しました。
こうして「貴族はどんどん富み、庶民はどんどん貧しくなる」という制度が藤原仲麻呂の時代に確立したのです。ここから律令国家の崩壊が始まります。
藤原仲麻呂以降、「律令国家」は徐々に崩壊して「王朝国家」に移行します。
「王朝国家」における貴族は、まさに私利私欲の塊です。大物貴族は各地の土地をどんどん自分の私有地にし、国司に赴任した中小貴族は現地の庶民から散々税を搾り取りました。(出挙の返済と租税は混同されるようになりました。)
こうした貴族の私有地を「荘園」と呼びます。さらに貴族たちは荘園において「不輸の権」や「不入の権」と言った様々な特権を認めさせました。
「不輸の権」というのは「税金を払わなくとも良い」という特権です。
「不入の権」というのは「貴族の土地には公務員の立ち入りを拒否できる」という特権です。
さらに「検断不入の権」というとんでもない特権も認めさせました。これは
「犯罪捜査等の目的であっても公務員の立ち入りは禁止!荘園内の揉め事は所有者である貴族が判断する!」
というものです。「どうして政府がこんな無茶苦茶な特権を認めたの?」と思われるかもしれませんが、その政府の中枢を占めるのが貴族ですから仕方ありません。
ということは、どんな凶悪な犯罪者でも貴族の友人がいると、その貴族の荘園に逃れれば当時の警察機構である「刑部省」(今の法務省)も「検非違使」(今の検察官)も「弾正台」(今の警視庁)も、誰も手を出せない、ということです。言うまでもなく、貴族自身の犯罪は誰も裁けません。
という訳で、「王朝国家」において治安はものすごく悪化しました。この「王朝国家」が確立した時代が「平安時代」です。
さて、想像して見てください。どんな犯罪者でも警察が手を出せないどころか、犯罪者を政府の偉い人が庇っている社会――そんな社会だと、貴方はどうしますか?
もしも自分の家族が殺されても、犯人が貴族の仲間だと誰も手出しできません。とは言え、泣き寝入りをするのも嫌です。つまり「自分の身は自分で守る」しか、ありません。
それが「武士」の始まりです。警察も何も当てにならない時代ですから、自分の家族と財産と故郷を守るために武装したわけです。
とは言え、勝手に武装すると単なる「犯罪者」や「暴力団」と同じ扱いになります。が、心配はいりません。「検断不入の権」を逆手にとればよいのです。
つまり、Aという貴族から身を守るために武装した武士がいたとします。彼はAと仲の悪い貴族のBと仲良くします。そして、何かあればBの荘園に逃げればAも手出しは出来ません。
貴族も日本中の荘園を支配しているので、全ての荘園を支配は出来ません。なので、各地の荘園に「荘官」という管理人を置きました。最初、荘官は貴族の子分がなっていましたが、「自分は自分で守る」という武士の登場で貴族も戦略を変えます。
なんと、武士を荘官に任命するのです。貴族からすると
「おちつけ、金が欲しいならやるから暴れるな。おとなしくしろ。」
という感じです。時代が進むにつれて武士の荘官はどんどん増えていきました。
さて、荘官はあくまでも荘園の管理人です。ある程度の給料はありますが、その地位は貴族の気まぐれでどうにでもなります。
だいたい、当時の貴族はあまりにも国中の富を独占しています。武士たちの不満は収まりません。
そこへ現れたのが平清盛です。彼は貴族の荘園の荘官になっている武士たちを「地頭」として自分の子分にしたのです。今でいうと「管理職組合」を結成しその委員長になったのです。
「地頭」というと「鎌倉幕府の制度」と勘違いしている方もいるかもしれませんが、これは元々平氏政権の制度です。実は平氏政権も鎌倉幕府もその基本的な統治原理は一緒です。
平氏政権や鎌倉幕府は、まず貴族による荘園の所有権自体は認めました。
ただし、「地頭(=荘官)」は平氏政権や鎌倉幕府が決める、とします。平氏政権や鎌倉幕府は「地頭代表」というスタンスです。
今でいうと「管理職組合」が財閥系の大企業の人事権に口を出しているような状態です。だから、鎌倉幕府の征夷大将軍というのもあくまでその地位は「荘官(の一部である地頭)の代表」であるに過ぎなかったのです。
よく勘違いしている方がいますが、鎌倉幕府は全国的な政権ではありません。あくまで貴族の荘園のうち、そこの管理人である荘官が「地頭」として鎌倉幕府と言う名の「管理人組合」に入っている領域だけが、支配領域です。室町幕府になると実態はかなり変化しますが、建前は一緒です。
ここで愈々「承久の乱」の話になります。よくこれを「朝廷VS幕府」の対立とする方がいますが、それはマチガイです。
そもそも、「幕府」という呼称自体に問題があります。「幕府」というのは「将軍の居場所」を指す言葉で、転じて「将軍の役所」の意味にも使いますから鎌倉時代から「幕府」の用語自体はあったものの、一般的ではありません。なぜならば「将軍」であることに鎌倉幕府の本質は無いからです。
征夷大将軍というのはあくまで軍事面の最高責任者です。確かに武士からすると自分たちのトップが「将軍」に任命されることは嬉しかったでしょうが、行政上はそれよりも、将軍が「日本国惣地頭」を兼任したことの方が重要です。これにより、将軍は「地頭代表」としての地位を朝廷から公的に認めらたからです。
とは言え、鎌倉幕府には「政所」という機関もありますが、これは従三位以上の官位の者だけが開設できる機関でした。征夷大将軍は従三位から正三位なので、将軍になったことで堂々と政治に口出しが出来るようになった、とも言えます。
なので、私も便宜上は「鎌倉幕府」と呼ぶことにしますが、鎌倉幕府や室町幕府の将軍は建前上「地頭代表」であった点が江戸幕府とは異なる、ということは強調しておきます。
一方、この「幕府」と「承久の乱」で戦ったのは「朝廷」ではありません。「院政」です。
「朝廷」と言うのは、あくまで天皇陛下の臣下である大臣・参議らを中心とする政府です。しかし、当時は日本中のあちこちが「荘園」になってしまっているので、朝廷が直接統治できる領域はほとんどありません。何しろ荘園には「検断不入の権」まで認められているのですから、荘園の中には朝廷が定めた法律など、無いも同然です。
とは言え、やはり日本の中心は天皇陛下です。天皇陛下が日本の中心なのですが、王朝国家における陛下は、貴族たちのせいで驚くほど権限がありません。朝廷に命令して何かしようにも、その朝廷の大臣たちが日本を私物化している貴族たちなのだから、どうしようもありません。
という訳で、政治的に優秀な才能を持っている天皇陛下ほど、畏れ多くも「早く天皇を辞めたい」という思いを抱いてしまう、トンデモナイ状況だったのが当時の日本でした。そして陛下はなるべく早く譲位して、今度は「上皇」となります。
「上皇」の部下は朝廷の大臣たちではありません。朝廷はあくまで天皇陛下の部下です。とは言え、まさか「元天皇」に「部下0」という訳にはいきません。上皇のためには「院庁」という役所が置かれることになります。
この「院庁」の役人には朝廷とは違い、上皇が個人的に信頼している人間を任命できます。必然的に院庁には今の朝廷の主流派の貴族に反発している中小貴族や官吏たちが就職するようになります。
さらに、上皇の中には難癖をつけて貴族の荘園を「没収」し、自分の荘園にする者も出てきました。
また「知行国制」というものも登場しました。当時の日本の土地の半分は貴族の荘園でしたが、残りの半分は建前上「公領」(朝廷が直接統治する土地)です。しかし、既に述べた「公廨稲制」以降、どんどん国司による「公領の私物化」が進みました。
そこて、幕府が荘園に地頭を任命して貴族の支配権を制限して権力を拡大したように、上皇は公領に知行国主を任命して国司の支配権を制限し、自分の権力を拡大しました。
実際には幕府よりも院政の方が先なのですが、鎌倉幕府が出来た後も院政は終了したわけではありません。
というよりも、単なる「地頭代表」の幕府よりも「元天皇」である上皇の方が、誰がどう見ても権威があります。
従って「武力を持っているのは鎌倉幕府だが、権威は院政の方が上」と言う状態が続いていました。ちなみに、本当に日本を支配する権利を持っているのは朝廷のはずですが、こちらは腐敗した貴族たちのせいで全く機能しておりません。
こうしたことが「承久の乱」の背景でした。
幕府と院政は最初から対立していたわけでは、ありません。源頼朝を将軍に任命したのは、当時院政を行っていた後鳥羽上皇です。
しかし、三代目将軍の源実朝が暗殺されて、しかも頼朝の直系の子孫が全員途絶えたことで問題が発生します。
当初、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の息子である雅成親王を新しい将軍にしようとします。皇族が将軍と言うと違和感を抱く方もいるかもしれませんが、征夷大将軍は元々貴族が就任していたので、皇族が就任してもおかしくはありません。事実、この後の歴史では皇族が将軍になる例もあります。
ただ、皇族や貴族は争いを嫌います。将軍は戦うためにある役職ですから、朝廷では不人気な役職でした。
後鳥羽上皇も雅成親王の将軍就任を拒否しました。これは雅成親王が嫌がったのかもしれません。雅成親王は歌人です。武士と一緒に将軍として戦うなど、名前通り「雅な」皇族であった雅成親王には耐えられないことだったでしょう。
すると幕府、今度は源実朝と仲の良かった貴族の九条家から将軍を迎えました。これが後鳥羽上皇を怒らせました。
なんやかんやで鎌倉幕府の第4代将軍は貴族の九条頼経が就任しました。とは言え、貴族は軍事の素人ですから、実権はナンバー2である執権の北条義時が握りました。
ここまでの経緯で判るように、幕府は院政側と貴族側の対立を巧みに読み取り、貴族たちと手を組んでいたのです。
しかし、後鳥羽上皇には切り札があります。時の天皇である順徳天皇は自分の息子です。もしも順徳天皇が北条義時討伐の命令を出すと、北条義時は「朝敵」となります。「朝敵」は絶対悪です。
さて、順徳天皇は父親の命令通り北条義時討伐をしようとしましたが、朝廷の貴族たちが猛反対します。朝廷の貴族たちが言うことを聞かなくなった時の天皇の手段は一つです。そう、譲位です。(今の日本に似ている?それは、言ってはならないことです。)
朝廷の正式な命令が下っていないとはいえ、こちらは後鳥羽上皇と順徳上皇と、元天皇が二人もいます。権威は絶大です。
さらに後鳥羽上皇、真言宗僧侶に勝利のための加持祈祷をさせました。当時の真言宗は「天皇は大日如来と一体である」という教義を弘めていましたし、加持祈祷をすると何でも願いが叶うと思われていました。
さて、これは負けるはずのない戦いです。何しろ、真言宗の僧侶のお祈りの力もありますから、神様もこちらの味方のはずです。
鎌倉幕府もお祈りはしていたはずですが、神様は正しいものの味方をします。上皇二人に逆らうのが「正しい行為」の訳、ありません。
と、いう訳で、満を持して後鳥羽上皇は北条義時討伐の命令を下しました。承久の乱の始まりです。
結果は、上皇側の大敗でした。後鳥羽上皇と順徳上皇は島流しに逢い、仲恭天皇は鎌倉幕府によって半強制的に譲位させられました。
以後、幕府は朝廷の政治に口出しをするようになり、天皇の皇位継承にも干渉するようになったのです。
そもそもの失敗は、後鳥羽上皇が息子の雅成親王を征夷大将軍にしなかったことでしょう。
そうすれば幕府との対立はそもそも起きませんでしたし、仮に北条義時が騒いでも軍事力は押さえることが出来ました。我が国の皇族や貴族は、軍事力を押さえるという発想が希薄です。
ただ、面白いのはそれでも院政は終了しなかった、という点です。
その後も「上皇による院政」は続いたのですが、幕府の軍事力の前では何の力もないことが明白になりました。上皇の権威は暴落です。
おまけに、天皇の位までもが幕府の軍事力によって左右されるのです。
いくら朝廷に力がなくなっても貴族が天皇陛下の臣下として、表向きはいたのは、天皇陛下が神であると信じていたからです。或いは、真言宗や天台宗の僧侶のように天皇陛下と大日如来が一体であると信じていたのです。
貴族からすると、自分たちによって「神」だった存在が「管理職組合」の連中にやられてしまった――これは貴族の権威失墜につながるのですが、当時の腐敗していた貴族の中にはこのことの重大性に気付かない方もいました。
何しろ、院政との政治的な対立から幕府の味方をした貴族もいたほどです。当時の貴族は私利私欲の塊で、歴史が見えていなかったのです。
この重要性を理解したのが、日蓮聖人でした。
日蓮聖人にとって天照大御神と八幡菩薩は釈迦牟尼如来の垂迹です。その子孫が天皇陛下なのです。
「どうして、天皇陛下が幕府によって廃されるという『先代未聞の下剋上』が起きたのか?」
このことが日蓮聖人の大きなテーマでした。その結論が
「今の日本では『法華経』の真理が正しく守られていないからだ!『法華経』の真理が正しく守られていれば、こんな下克上は起きるはずがない!」
というものでした。
確かに、そういう面もあるでしょう。ただ、やはり忘れてはならないのは、天皇陛下の臣下たる朝廷の腐敗です。
そもそも、『法華経』の真理が正しく守られていないのも、当時の貴族たちが「鎮護国家」ではなく「私利私欲」を祈り、「私利私欲」のために宗教を利用していたからです。
そして、貴族たちが国家を私物化しなければ、そもそも武士などは誕生しませんでした。
律令国家の腐敗――このことが全ての根本原因であり、王朝国家の誕生は決まっていたのです。