政教分離は「宗教排除」か「宗教共存」か
政教分離には「公共=無宗教(宗教排除)型」と「公共=他宗教(宗教共存)型」の二種類があります。
フランスでは公共の場でスカーフを身に着けるのを禁止していますから、これは「宗教排除型」です。
アメリカは一方、大統領は聖書に手を置いて宣誓を行いますが、イスラム教徒やユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒が公の場で信仰を表明しても問題ありません。
スカーフをつけて大学に通うムスリムもいます。アメリカは「宗教共存型」な訳です。
ただ、アメリカでは宗教共存が上手く行っていないから様々な問題が起きます。
日本はアメリカをモデルにしつつ、多くの国民は「公共=無宗教(宗教排除)型」で考えてきました。
これは明治政府の「神社非宗教論」に遡ります。
明治政府は「神社は宗教施設ではない」という主張を行いました。
そして神社から宗教色を一切取り除こうと努力をしました。
しかし、「宗教」と「祭祀」は確かに異なるものですが、完全に分離することも不可能です。
なので「政教一致の建前を守るように行政が神社の祭祀を管理する」という形で運営されていました。
「神社非宗教論」の是非はともかく、「公共の祭祀は宗教とは違う!」という明治政府の主張は国民の意識に大きな影響を与えました。
仮に神社の神主さんであっても、宗教を公共の場に持ち込んではならない、という政府が言うわけです。
だから戦後になってGHQが「政教分離だ、祭祀も国家から分離せよ」というと多くの国民は
「公共の場から宗教を排除することが、政教分離の徹底である」
という風に解釈しました。
これはとても歪な現象です。
「宗教排除型」の政教分離が行われると国民は信仰はプライベートで行うことになります。
そして、宗教の側も「公共性のない信仰」を説きます。
伝統仏教が「葬儀仏教」といわれるのも、新興宗教が「現世利益」を掲げて信仰者を集めるのも、信仰に公共性がないからです。
しかし、公共性の失った宗教の暴走こそが、今の世界での宗教問題の原因です。
フランスでイスラム教徒が社会に反発を持っているのも「公共の場でスカーフをするな」と言った、露骨な宗教排除をしているからです。
またフランスは宗教だけでなくヴィーガンへの弾圧もしています。
ヴィーガン用ステーキをステーキと表記してはならない、といった類の法律が次々と作られているのです。
宗教への不寛容は思想への不寛容に繋がります。
日本でも公共の場では宗教だけでなく、政治の話もしてはならない、という空気があります。
そのせいで、日本では一般人は政治活動から遠ざかり、一般の感覚からズレた人が政治を動かすようになりました。
宗教も同様です。本来、民衆を導くべき宗教家が「公共の場からの宗教排除」「信仰からの公共性喪失」によって、民衆とは感覚がかけ離れるようになっているのです。
私は日本こそ「宗教共存」のモデルになるべきである、と考えています。
アメリカは表向きは「宗教共存」を謳っていますが、激しい宗教対立に晒されています。
一方、今の日本では激しい宗教対立はありません。ただ、宗教同士の無理解はあります。
新興宗教どころか、伝統仏教も公共の場から疎外されたため「宗派によって作法が異なる」という現実を知り葬儀の場で戸惑う人も少なくないのです。
ここで宗教同士の相互理解を深め、公共の場でも宗教同士が共存できる努力をすれば「宗教共存」の世界的なモデルを築くことが出来ると考えられます。